《書評》『流浪の月』凪良 ゆう

読書

書店で大きな看板を見かけた時に、なんだか気になったことを覚えています。
しばらく忘れていましたが、本屋大賞の時期が近づき、
過去の大賞のなかに本著をみつけて急に読みたくなりました。

映画化もされた作品。
ゆっくりとページを開きました。
 ( 結末を暗示する内容が含まれています。これから読まれる方は、ご注意ください。)

流浪の月 [ 凪良 ゆう ]

事実と真実

ものごとを、
嘘偽りのない本当のこととして、
真実として、
見ることなどできるのだろうか。

私は目の前のことを、
真実として見ることができているのだろうか。

とても、そんな自信はありません。

自分のことでさえ、
ともすればいいように歪曲し、
せいぜい事実を事実として見られたら良いほうなのです。

今までの経験、得た知識、試行錯誤、喜怒哀楽…
私の中を通過していったあれやこれやが意識の底に沈澱し、
私という人間の思考を歪めます。

過去のそれらに囚われた私の意識は、
目の前のことを変幻自在に変化させ、
真実とはまったく違う別物として、
私に認識させてきます。
さもそれが、真実であるかのように…

その囚われの罠に嵌まらず、
真実まで到達する術を、
私は持っているのだろうか。

「ごめん。わたしの言い方が悪かったから言い直すね。事実と真実はちがう。世間が知ってるつもりになってる文と、わたしが知ってる文はちがう。文は相手が嫌がることを無理強いする人じゃない。わたしは、それを、真実としてしってるの」。

p256

 事実と真実はちがう。そのことを、ぼくという当事者以外でわかってくれる人がふたりもいる。

p344

真実を真実のまま見ることができていることなどほとんどなく、
真実のまま見ていないということに気付きさえせず、

刷り込まれた価値判断、
どこかで聞きかじった一般常識、
無意識に採用した自分に都合のいい考え…

そんなものにくるまれて、

分かったつもり
知っているつもり
理解しているつもりになるのはたやすく、
そのつもりが、誰かを傷つけているかもしれない。

自分が真実を知らないことを認めるのは難しい。
知っているつもりで優しくするのは、
真実を知ることよりも易しい、かもしれない。

でも、
真実を知らないかもしれない、という可能性さえ考慮せず、
優しさを差し出すなら、
それはもう、優しさではない。

ヨガ哲学を学ぶようになって、ありのままを見ることの難しさを知りました。
頭で理解したつもりになっても、
感情が、
記憶が、
囚われが、
思考を歪めてきます。

事実と真実

その、一見大した違いのなさそうな現象の、
天と地ほどの隔たり。

その隔たりがどんどん私の心を苦しくさせていき、
それでも、
最後に解放してくれる作品でした。

タイトルとURLをコピーしました