私が著者のことを知ったのは、
たまたま開いた新聞の文化欄で次のような文章を目にしたからです。
「希少がん」。いい響きではないか。(中略)「希少」は、私には「希望」に見えてくる。
この文章は本書のあとがきに書かれているものですが、
私はこの一文に目を惹かれ、
このような考え方ができる方がどんな作品を綴ってきたのか知りたくて、
その後、著者の作品をいくつか読ませていただきました。
そして今回、
私が著者を知るきっかけとなった本書を手にしました。
初めて読む著者のエッセイ。
読む者の心を揺さぶるノンフィクションの原点を垣間見せてくれるような、
厳選したエッセイとルポタージュの作品集です。
希望
著者は、決して強い人間ではありません。
本書のここ10年余りのエッセイの中でも、その時々の不安、困窮、不調、トラウマ、コンプレックス、理不尽な現実に対する怒りや突然胸を締めつける悲しみなどが綴られています。
著者が出会う人たちもそうです。
それぞれの日々の中で悩み、苦しみ、辛さやしんどさを抱えながら、それでも時に嬉しい驚きや喜びに出逢い、希望を見出し、生きています。
なぜ取材をするのか。
著者の中にはそんな問いがいつもあります。
一瞬人と出会い、その人を書き、別れ、一瞬人と出会い、書き、別れ••••••
その日常に孤独を感じ、生きることに倦む。
そんな心情も吐露しつつ、
それでもライターを続けるのはなぜなのかとまた問います。
問いながら手探りで進む人生の中で、
人はどんなときでもお喋りするし、
お腹がすくし、
声を立てて大笑いできるということを発見します。
どんなに大切な人を失っても一緒に死んだりしないように作られている。
息をさせられ、心臓を動かされ、生きるのに必要なことのほとんどは体が勝手にしてくれる。
死にたいと願っても体は生きているし、
生きたいと願っても時が満ちれば死んでいく。
その上、
現実はあらぬ方向へと転がり続け、
運命は思いもよらぬカードを配る。
未来は予測不可能で、
何があるのかわからない。
なぜ取材をするのか。
世俗にまみれ、小さき声に耳を傾け、そこから見えてくる何か。
それは希望なのか。
希望とはなんなのか。
それはいったいどこにあるのか。
希望。
その本当の意味を探して、著者は取材を続けるのだと思います。
この歳になって初めての独り暮らしを始めた。まだ慣れない。カタカタと窓を鳴らす風の日や、大きな地震があった夜などに、だしぬけにやってくる孤独の扱い方がまだ下手で、眠れなくなってしまうこともある。
p88
でも、だてに歳は重ねていない。この孤独もいつか手なずけることができるとちゃんとわかっている。
こういう気持ちがやってきたときは闘わないことだ。なかったことにして無視をするのもよくない。猫のようにそっとふところに抱いて、大丈夫、となだめるのがいい。
孤独や悲しみが影のように忍び寄り、
気がつくとどっぷりと浸かってしまっていることがあります。
著書のように、
人の生死に関わる取材が多い日々を過ごしていたら尚更ではないか、
と勝手な想像を巡らします。
そんな想像を裏付けるような記述もあります。
けれど著者は、
その孤独や悲しみを無視したり、闘ったりはしません。
自分の内側に戻る。
自分の奥の静かな場所に帰っていく。
それは、
人の生死と真摯に向き合い、
じたばたと足掻きながらもそこから逃げなかった著者が手にした、
希望の片鱗のように感じます。
著者はあとがきに、重い一文をさらりと書かれています。
自身が悪性の脳腫瘍「グリオーマ」を患っているということです。
この病気は10万人に1人と言われる珍しい病で、その数の少なさから「希少がん」とよばれています。
その「希少」を「希望」と見る著者。
どんなに強い方なのかと思っていた彼女は、
決して強くも完璧でもなく、
でもそれ以上に魅力的な方でした。
担当編集者の田中伊織さんは、
「佐々さんはどんな取材現場でも常に『希望』を探して、妥協がない。読者に希望をもって本を閉じてほしいと、いつも考えている」
と語られたそうです。
希望。
生きる糧。
希望とはなにで、いったいどこにあるのか、
私にもわかりません。
でも著者の本を読むと、
短絡的な幸せではなく、
それを超えた「何か」を感じます。
その「何か」が
著者の伝えたいもの、
読者に届けたいものなのかもしれない ──
佐々さんの作品に出会えたことを感謝しつつ、最後のページを閉じました。