《書評》『ものがわかるということ』養老 孟司

読書

夕刊の話題の本を紹介するコーナーで目にした本書。

「自分とは」答えは身体に

という大文字が目に飛び込んできました。

エゴの頭で考えがちな日々。
わかったつもりで実はわかっていないことも多い。
答えは身体に。
養老先生の「わかるということ」のとらえかたを知りたくて、ページを開きました。

ものがわかるということ [ 養老 孟司 ]

自然のルール

養老先生も書かれていますが、
人間なんかいなくても、自然は成り立っています。
成り立っているどころか、
地球に最初の生命が誕生した約40億年前から現在に至るまでのほぼ全ての年月を、
自然は人間なしでやってきました。

その長い年月の中で、
自然は絶滅と進化を繰り返しながら生き長らえ、
今我々が生きているこの世界を脈動させてきたのです。

そこには、自然のルールが存在します。
世界を脈動させるルール。

それは、地球史の中ではニューフェイスである人間が、
頭でいくら考えても簡単にはわからない、
複雑かつ完璧なルールです。

その対極にあるのが、養老先生の言われる「脳化社会」。
何でも数値に置き換え、変化を嫌い、偶然を退ける「脳化社会」です。

そこでは、
全てが情報化され、記号化され、意味があり価値があるものが重要とされます。
それは人間も同じです。
人間自体が情報として固定化され、
名前や肩書きを自己と錯覚し、
錯覚した自己が何か意味のあるものを求めている。

ところが、世の中は意味のないもので溢れています。
いや、
「脳化」した人間には意味のないように感じられるもので、溢れているのです。

意味のあることにしか価値がない、
という思いが頭にあると、
意味がわからないものを前に途方に暮れます。
どんな価値があるのかわからないものには手を出そうとしなくなります。
頭にあることしか、
結果がわかっていることしか、
価値がある(と思っている)ことしか体験できなくなります。

そうして、人生が貧しくなっていきます。

一本の木だって三十五億年という途上もない歳月を生き延びてそこに生えている。その形状がいい加減にできているはずがない。一本一本の細い枝の先端に至るまで、自然のルールを反映しているのです。そして、自然の中に身を置いていると、その自然のルールに、我々の身体の中にもある自然のルールが共鳴する。すると、いくら頭で考えてもわからないことが、わかってくるのです。

p201

思い出したいのは、私たちも自然の一部だということです。

いくら脳化社会の下、価値あるものを掌握したつもりになって、
人間に都合の良い世界を作ろうとしても、
自然は脈動しません。

自然は常に活動し、現実も千変万化している。
それなのに、
脳化社会では情報が優先し、不変である記号がリアリティをもちます。
絶えず変化している自然の方がリアリティを失っていき、
意味のないものは価値のないものとして失われていきます。
その失われつつあるものの中に、
自然の一部としての人間も含まれているのです。

脳化社会で何かを「わかる」という時、
情報として知っている、
知識として知っている、
聞いたことがある、
見たことがある、
習ったことがある…
だから「わかる」のだ、ととらえることが増えました。

でもそれは本当でしょうか。

脳内旅行をしたら、それは旅行したことになるのでしょうか?
もちろんそんなはずはありません。

そんなはずはないはずなのですが、
ないはずがなんだか曖昧になってきました。

旅先の情報を知っている、
聞いたことがある、
見たことがある、
予習した…
だから「旅行した」?「わかる」?

バーチャル旅行が現実にある現代、それを「わかる」という人も出てくるかもしれません。

でも、
実際に現地に行って「わかる」ことと、頭の中だけで「わかる」ことには大きな違いがあります。

「腑に落ちる」や「腹の底からわかる」という言葉もあるように、
ほんとうの「わかる」は身体を通してわかるものです。

身体を使い、動かし、体験した末での「わかる」、
それが本来の「わかる」です。

それなのに、
「脳化社会」は時間のかかる身体を伴った学び(体験)を軽視します。
身体を伴わず、頭だけで理解しようとします。
その傾向が強くなればなるほど、
人間にも本来備わっているはずの感覚が劣化し、
自然のルールが退化していきます。

ほんとうの「わかる」から離れていってしまうのです。

身体は自然です。

脳がどれほど発達しようと、
人間の身体には約40億年の進化の記憶が刻まれ、
脈々と引き継がれています。

そして、自然は変化します。

自然の一部である人間は今この瞬間にも変化しており、
一時として同じ自分ではありません。
それは、
身体はもちろん心も頭も同様で、
変化し続け、変わり続けています。

そんな変わり続ける自分が今を生き、体験します。
自分が変われば、大切なものも変化します。
「変わった」自分は、今までとは違った世界を体験します。
自分が変われば世界全体が変わる。
未知との遭遇です。

そのためには、脳化した自分を情報として固定していては難しいのです。

「なぜ『私は私、同じ私』でなきゃならないのか。そんな『私』なんか、どこかに捨ててしまったほうが楽ちんです。」

と養老先生は言われます。
実際にそうなのでしょう。

固定化した「私」は、脳化社会に絡めとられた頭でっかちの私で、
自然のルールと繋がりの薄い私です。

そんな私は捨ててしまい、
理性でわかろうとすることをやめた時、
対象物との共鳴が起こって「あぁなるほど」と深く納得できる、
そんな瞬間がおとずれるのだと思います。

なんだか共鳴する

その感覚が人生を豊かにする、と教えてくれる一冊でした。

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