『神の子どもたちはみな踊る』の書評の文頭にも書いたことなのですが …
村上春樹の作品が初めてアニメ映画化された「めくらやなぎと眠る女」。
その原作だと思って手にした『めくらやなぎと眠る女』(新潮社)が実は原作ではなく、
映画に関連した短篇3作品を含む24の短篇コレクションであったことに驚きつつ(ちなみに、映画は短篇6作品から再構築されている)、いつの間にか夢中になって村上春樹の世界を堪能したのですが、
やはり残りの3作品も気になって、それらが含まれる小説集を読むことにしました。
『神の子どもたちはみな踊る』で3作品のうち2作を読み、今回は最後の1作品が含まれる小説集です。
消滅
この小説集には、映画の原作にも使われ、私のお目当てでもあった作品「ねじまき鳥と火曜日の女たち」を含む6篇が収録されています。
「ねじまき鳥・・・」は最後の6作目に登場しますが、最初のページから順に読み進んでいくと、なんだか読んだことがあるような…
意識の上では完全に忘れ去り、初めて手にした小説集のつもりだったのですが、どうやらそうではなかったようです。
記憶の底に沈んでいた断片にはっきりと触れたのは、2作目の「象の消滅」。
これは確かに読んだことがある。という実感。
細部はちっとも覚えていないけれど、おそらくこの小説集の中で一番好きな作品だったのでしょう。
今回も、やはりこれが一番でした。
ちっとも覚えてなさでいえば、他の作品は「象の消滅」以上に覚えていない始末。
でも、カケラが私の中に残っていたようです。
読んでいると、消滅していなかった何かが、私の心に引っかかってきます。
そんなふうに読んでいると、「象の消滅」以外の作品も、どこかしらに消滅が関係する世界が描かれているような気がします。
世界では今も何かが消滅していて、主人公だけがそれに気づいている、
しかも消滅していく何かの大切さを感じている ──
そんな世界たちです。
象舎の落成式には僕もでかけた。象を前にして町長が演説し(町の発展と文化施設の充実について)、小学生の代表が作文を読み(象さん、元気に長生きして下さい、云々)、象のスケッチ・コンテストが行われ(その後象のスケッチは町の小学生の美術教育にとっては欠くことのできない重要なレパートリーとなった)、ひらひらとしたワンピースを着た二人の若い女性(とくに美人というほどでもない)が象にバナナを一房ずつ与えた。象は殆んど身動きひとつせずにそのかなり無意味な──少なくとも象にとっては完全に無意味だ──儀式にじっと耐え、無意識と言ってもいいくらいの漠然とした目つきのままバナナをむしゃむしゃと食べた。象がバナナを食べてしまうと、人々は拍手をした。
単行本p40
象舎の落成式の場面を読んでいると、なぜだか笑ってしまいます。
まさしく現実にありそうな情景でありながら、どこかシュール。
動じない象の周りで、人間だけがバタバタしています。
まぁ、この場面に限らず「象の消滅」自体がそんなお話です。
象はただそこに在る。そしてある日突然消滅する。
静の象に対して、バタバタと右往左往する人間、社会。
象はただ淡々と存在し、消えてしまった。
そのことに影響を受けているのは(おそらく)主人公だけで、散々騒ぎ回っていた人々も社会も象のことなどすっかりと忘れ、単調な日常へ、あるいは違う出来事に騒ぎ、日々が過ぎていきます。
でも、消滅したのは象だけなのか ──
消滅の後の主人公たちは、消滅の前とは変わってしまった自分を感じながら、再び日常に、便宜的でまともで機械仕掛けのような世界に、戻っていくのです。
最初の作品から最後の作品まで順番に読んで、また最初から最後まで読み返して…
そんなことを何回繰り返しても、本を閉じると全ての作品が混沌と混ざり合って、境界が曖昧になり、記憶の底に物語のカケラだけがいくつか埋め込まれている。
そんな小説集でした。
「ねじまき鳥と火曜日の女たち」を読んでいると、映画「めくらやなぎと眠る女」のシーンが頭の中を去来するのも、混沌さに拍車をかけたようです。
あの映画の白昼夢を見ているような不思議な感覚。
この小説集にも、それに通じるところがあるような気がします。
そしてそれは、悪くない感覚でした。
数日後か数ヶ月後か、いずれにしてもしばらく経つと、再び内容を忘れ去ってしまう予感があります。
数年してまた、初めて手にしたつもりで本書を開く自分が想像できます。
そして、記憶の底に沈んだカケラに引っかかりながら、読み進んでいくのです。
でもそれは、楽しみな想像です。
この小説集の不思議な感覚と再びまっさらな気分で対面できるのですから。
数年後の再会を思いながら、最後のページを閉じました。