《書評》『客観性の落とし穴』村上 靖彦

読書

新書大賞2024が発表された時、
第2位『訂正する力』と第3位の本書『客観性の落とし穴』に興味を惹かれ、
すぐに図書館で予約しました。

どちらも、現代を生きる私たちに疑問を投げかけてきそうな題名です。
ようやく順番が回ってきたので、早速読み始めました。

客観性の落とし穴 [ 村上 靖彦 ]

真理はそれ以外にもある

エビデンスという言葉をよく耳にします。
「エビデンスに基づいて」と言われると、なんとなく信頼できるような気がします。
でも、
なんとなく信頼できるような気がする反面、
エビデンスという言葉が何を意味しているのかさえ曖昧で、
改めて調べてみました。

エビデンスとは、英語の“evidence”が語源で、
証拠・証言・形跡などを意味するそうです。
つまり、
英語のevidenceは証言なども含めた広い範囲の意味を持つのに、
日本ではもっぱら「科学的根拠」「統計的数値」といった
客観的データを表す言葉として使われているのです。

本書では、
そうした客観的データに過大な価値を見出す社会に対して、
客観性と数値化に関する歴史や問題点を提起した後、
著者の研究経験を例に挙げ、
客観=真理というとらえ方の錯覚を示してくれます。

 さまざまな偶然に翻弄されながら、「にもかかわらず」私が「ある」こと、これが私たちの存在の不思議であり、九鬼が原始偶然と呼んだものだ。そして、このような「にもかかわらず」私が「ある」ことの不思議さが経験の生々しさなのである。人が自分の人生を生きるということは、存在すること自体の偶然性に根っこを持つ。

p112

私たちの人生は、偶然出会う出来事とともに作られています。
たまたま出会った人、
たまたま発した言葉、
たまたま参加したイベント、
たまたま遭遇したあれやこれ…

そもそも、
今この時代のこの社会に生まれてきたことさえ、
さまざまな偶然の積み重ねの上に成り立っているのです。

そこに登場した客観性という概念。

自然、社会、時間、心というように世界のありとあらゆる事象は
19世紀から20世紀にかけて客観的にとらえられるものとなり、
客観的な事実こそが真理であるという発想が生まれました。

要するに、
数字と競争に追われることになったのは
数百万年の人類の歴史の中で、
たかだかこの200年弱の欧米型社会においてだけなのです。

そんな浅い歴史の概念に支配され、
それを真理とする考え方は、
私たちの人生を窮屈なものにしています。
エビデンスに基づくリスク管理に追われ、確率と不安に支配されているのです。

私たちにはいろいろな可能性がある。
「にもかかわらず」
今、こうしている。

そうならない可能性もあったのに、
「にもかかわらず」そうなっている。

そこには、たまたまそうなったありとあらゆる可能性の結果としての今があります。
その「にもかかわらず」なった今を受け入れて生きていく。

そこに、生きるエネルギーが生まれます。
そしてその時、エビデンスはお呼びではありません。

客観性や数値化は、
いっとき私たちに安心感を与えてくれるかもしれません。
それは、
目に見える形にすることによって、
何かをわかったつもりになれるから。

人間は、わからないことに対する恐怖があります。
わからないことは怖い

客観性と妥当性を重視する近現代の科学が依拠している統計学は、
世の中が偶然の出来事で満ちていることを認めた上で
「偶然を飼いならす」ために発達してきました。

偶然を飼いならしたいのも、
飼いならさないと怖いからです。

でも人生は、
社会は、
全てを客観化できるような単純なものではありません。

偶然はある。
あるどころか、
世界は偶然に満ちている

それを受け入れ、真理は客観以外にもあると認めるとき、
私たちは数字と競争による縛りから解放されます。

著者があとがきで言われているように、
客観性や数字を用いる科学が不要なわけではありません。
けれども、
それを真理とする考え方は、
本来自由でおおらかな生の営みを、狭く不自由なものに縛り付けてしまいます。

真理はそれ以外にもある

という寛容な態度が、
世界を窮屈にしないための基盤であると、教えられました。

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