ヨガをめぐるこぼれ話 ─ この変化の時代に生きる意味 ─

ヨガ余聞

今日はムーンデイ、満月です。

ヒトも自然の一部。
月の満ち欠け、潮の満ち引き、
日が昇り日が沈み、季節が確実に巡りゆく …
その大いなる循環の中で生かされています。

そんなムーンデイに、「この時代に生きる意味」について思いを巡らせてみました。

……──…──…──…──…── 🌕 ──…──…──…──…──……

私が学んでいるヨガ哲学の先生は、最近AIの活用に積極的です。
先日も、講座のアーカイブと共に、AIによる音声ダイジェストを送ってくださったのですが、
これがまた……

確かに一見、よくまとまっている。
明らかに間違ったことは言っていないし、
要点もしっかり押さえている。
所々おかしなところがあったり、
その言葉はいったいどこから?という部分もあるとはいえ、
概ね正しい。

が、受け入れ難いのは、
2時間近くにわたる我々の侃侃諤諤の講座内容が、
ほんの6分足らずに要約されてしまうこと。
これでいいのか!

── と息巻いていた私でしたが、
ヨガ哲学で考えるべきは、そういうことではないのです(と先生に諭されました)

「AI便利でいいですね〜」
とか
「AIよくわからなくて怖いですね〜」
とかで終わらせないのが、ヨガ哲学。
良いとか悪いとか、二元的価値観で評価して終わるなら、
哲学を学ぶ意味がないのです。

ここのところのAIの進化は凄まじい。
この変化の激流についていくのは正直、大変です。

けれども、そこで先生が出された問いがこれ。

「なぜ私たちは、変化の多いこの時代に生きているのか」

今日は、情報が洪水のように押し寄せてきて、
しかも、その情報がころころ変わります。
一説には、私たちが1日に触れる情報量は、江戸時代の1年分であるとも言われます。

そんな情報過多で変化の多い時代に、なぜ我々は生きているのか(生まれてきたのか)

たとえば江戸時代のように、情報が少なく、変化のない時代に生まれていたら、既存の仕組みや慣習によりかかって生きていても、あまり問題はありません。
社会は変わらないし、自分も変わらない。
そこで安穏としていられたのです。

ところが、現代は既存の仕組みがころころ変わる。
習慣も日々変化していきます。

そんな仕組みや習慣によりかかっていたら、翻弄されて、混乱するばかりです。
よりかかるというのは、「依存する」、「執着する」、ということでもあります。
あらゆるものが変わっていく時代に、変化するものに執着する。
それは、軸がブレブレの危うい生き方なのです。

では、この時代に生きる恩恵はないのでしょうか。
そんなことはありません。

変化の激しい時代とは、視点を変えれば、否応なく執着を手放さざるを得ない時代ともいえます。
変わらないと思って執着していたものが、すぐに変わる。
これに頼っていれば安全だと思っていたものが、すぐに消えてなくなる。

だから変化の激しい時代とは、自分の執着をどんどん手放して(手放さざるを得なくて)、自己を浄化していける時代です。
執着していたものの不確実性に気づき、
依存していたもののおぼつかなさに気づき、
最後に残るのは何か。

執着するものがどんどん変化する中で、自分は何を信じるのか。
何が本当だと気づけるのか ──

「それでもやっぱり変化が怖い」
という私に、その裏にはまだ執着があるのだと再び諭され、
自分の新たな部分に気づきます。

激しい変化の中で、自分の執着にどれだけ気づき、どれだけ手放していけるのか。
それが、この変化の時代に生きる意味 ──

そんなふうに考えると、変化に対する恐怖心もだんだんと、薄らいでいくのでした。

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