ヨガをめぐるこぼれ話 ─ 「怪獣」の卵からカルマを考える ─

ヨガ余聞

今日はムーンデイ、満月です。

ヒトも自然の一部。
月の満ち欠け、潮の満ち引き、
日が昇り日が沈み、季節が確実に巡りゆく …
その大いなる循環の中で生かされています。

そんなムーンデイに、「カルマ」について思いを巡らせてみました。

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私はここ数年、とあるヨガ哲学講座に参加しているのですが、
先月(2025年4月)はその講座内で、アニメ『チ。─地球の運動について─』の話題が盛況でした。
私もどハマりし、アニメを一気見したあと侃侃諤諤、議論に参加させていただきました。

そんな中で、
アニメのオープニング主題歌「怪獣」のミュージックビデオ(以下、MV)を観る機会があり、
そこからカルマについての考えが頭に浮かんできたのです。

MVでは、卵と思しき物体を大事に抱えながら地下道(?)をさまよう山口一郎さん(サカナクッションVo,G)と、そこへさまざまな人物が現れて卵を奪おうとする様子が描かれています。

逃げる山口さんと追う何者か。
時に札束をちらつかせ、
時に誘惑と引き換えに、
何者かは卵を奪おうとしてきます。
さらに、両側から迫りくる通路の壁。
挟まれて叫ぶ山口さんの、苦悩と恐怖と抵抗と、
それでも大事な卵を守り、進む様子が
緊張感をもって表現されています。

山口さんは、抱えた卵を何者かに奪われることなく守り抜きます(だと思います。多分)が、
では自分の卵はどうだろう、と、ふと思ったのです。

ヨガには、カルマという考え方があります。
カルマとは「行為」や「業」を意味し、行為そのものだけでなく、行為の結果も内包します。
今おこなった行為が未来の結果を生み出す。
つまり、
カルマは未来への種まき、と考えることもできるのです。

そこで、山口さんが抱えていた卵です。
抱えているのは大切なもの。
何ものとも引き換えにできない、唯一無二のなにか。
私にはそれが、
自身の本質(ヨガではそれをアートマンと呼びますが、源、それ、魂などともいわれますを信じる意識、
だと思えたのです。

もしも山口さんが札束と引き換えに卵を明け渡していたならば、その末路は金の亡者でしょう。
もしも山口さんが誘惑と引き換えに卵を明け渡していたならば、行き着く先は堕落でしょうか。

とにかく、
人は誰しも、大切にしているものがあるはずです。
その大切なものと、差し出されたもの。
どちらを優先するのか。

そんなことを考えながらMVを何度も見返し、
自分の卵を改めて鑑みてみると……
少し怖い気がします。

例えば金の亡者になるほどに、卵を全面的に明け渡してはいないとしても、
いくばくかの金銭と引き換えに、卵の一部を多少は手渡してしまっていないだろうか……
堕落者と言われるほどに、卵を全面的に明け渡してはいないとしても、
いっときの快楽と引き換えに、卵を差し出そうとしていないだろうか……

カルマが未来への種まきならば、
大切なものと引き換えに手渡したものも、
確実に種として残り、
未来のどこかで芽吹きます。
(そしてヨガでは、カルマの結果により生まれるのが輪廻だと考えます。
 カルマの潜在印象を解消しない限り、永遠にこの世に生まれ変わり続け、
 本当の自由は得られないと考えます)。

『チ。─地球の運動について─』は、
アニメはもちろん、主題歌「怪獣」も多くの哲学的思考を刺激してくれる作品でした。
今回の「カルマ」への考えも、その一つ。

一緒にヨガ哲学を学んでいる仲間たちは、どんな思考を展開しているだろう──
そんなことを想像していたら、
再び『チ。』の深遠な世界が鮮やかに甦ってきました。

もうしばらく、この作品世界を堪能したいと思います。

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