今日はムーンデイ、新月です。
ヒトも自然の一部。
月の満ち欠け、潮の満ち引き、
日が昇り日が沈み、季節が確実に巡りゆく …
その大いなる循環の中で生かされています。
そんなムーンデイに、感じることについて思いを巡らせてみました。
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以前にも書いたことがあるのですが、
私はたまたま近所の公民館で開かれていた教室の体験に申し込み、
そこで初めて「ヨーガ(以下ヨガ)」に触れました。
それ以前にも、スポーツクラブで何度かクラスに参加したことはあったのですが、
「最近話題のヨガってこんなもの?」
という感じで、
数回通ってフェードアウト。
ところがその公民館のヨガでは、
なんともいえない感覚を味わったのです。
そのなんともいえない感覚が忘れがたく、
今に続いています。
公民館のヨガで、先生が何度もインストラクションされていたのは、
「心地よいところに意識を向けましょう」
「伸びているところ、縮んでいるところを感じましょう」
「かすかな余韻を味わいましょう」
……
思い返すと、手の位置がどうとか、足の位置がどうとか、
アライメント(アーサナを取る際の、体の各部の位置のこと)に関するインストラクションはほとんどなく、
体を感じるためのお声がけが多かったような気がします。
今だから分かりますが、
スポーツクラブのヨガと決定的に違っていたのはその点でした。

なぜ、体を感じることで、あのなんともいえない感覚を味わえたのでしょうか。
それは、
なぜヨガでは体を使うのか、
が分かれば紐解けます。
私たちは今、
感覚ではなく脳(意識)で考えることが優先されがちな社会で生きています。
その結果、
脳が生み出した空想に苦しめられることも増えました。
過去への後悔も未来への不安も、脳が生み出した空想。
地位や名誉を偉いと感じるのも、脳の空想。
コスパ、タイパを重視するのも、脳の空想。
それなのに、
その空想に苦しめられる ──
ですが、こうした「空想が苦悩を作り出す」という図式は、今に始まったことではないようです。
今から何千年も前に編纂されたヨガの古典文献「ヨーガ・スートラ」や、
ハタヨガ(アーサナと呼吸法に重点を置いたヨガ)の古典文献などには、
脳が作り出すさまざまな空想に飲み込まれないために、
体を使うこと、
感じる力、
の大切さが説かれています。
つまりヨガでは、脳が作り出した空想に囚われないために、現実に存在する体を使うのです。

体を感じられるということは、現実を感じられるということです。
逆に、
体を感じられないということは、現実を感じられないということです。
私たちは、脳が作り出した空想の世界を重視するあまり、体を感じることをないがしろにしていますが、
それは、現実からも遠ざかっていることになります。
体を無視する。
体の声を聞かない(聞こえない)。
体の快適さがわからない。
そんな状態は、自ら幸せを手放しているようなものです。
空想の世界を離れ、今ある現実の体に意識を向けてみれば、
深呼吸したときの心地よさ ……
適度な食事の後の満足感 ……
頬に触れる風のやさしさ ……
リアルに体感できる幸せはたくさんあります。
そして、公民館のヨガで私が感じた、なんともいえない感覚。
あれも確かに「体感できる幸せ」の一つだったのだと思います。
体を感じることで実感できる幸せは、空想ではなく確かな現実。
虚構の幸せではなく、すでにある幸せ。
実感できる幸せを失わないために、
空想の世界に幸せを求めないために、
ヨガの実践で、感じる力を養います。
