ヨガをめぐるこぼれ話 ─ 「いま」とは ─

ヨガ余聞

今日はムーンデイ、新月です。

ヒトも自然の一部。
月の満ち欠け、潮の満ち引き、
日が昇り日が沈み、季節が確実に巡りゆく …
その大いなる循環の中で生かされています。

そんなムーンデイに、「いま」について思いを巡らせてみました。

……──…──…──…──…── 🌒 ──…──…──…──…──……

ヨガ哲学を学ぶようになって、「いま」ということについて、より意識するようになりました。

「いまを生きる」という言葉があります。
ロビン・ウィリアムズの演技が懐かしい同名の映画もありますが、「いまを生きる」、「いまこの瞬間を生きる」── 言うは易し行うは難しです。
思考はすぐに過去や未来に流れ出し、「いま」から外れてしまいます。

ですが、過去とは自分の記憶の中だけに存在し、過去を思い出しているのは「いま」の私です。
未来とは自分の想像の中だけに存在し、未来を想像しているのは「いま」の私です。

つまり、確かなのは「いま」この瞬間だけであり、過去も未来も虚構の世界、真実ではないのです。

── と、やはり言うは易し行うは難しなのでした。
そんなことを言ったって、過去はありありと思い出されるし、未来は圧倒的な迫力で迫ってきます。
そんな、どこからともなく湧き上がる「いま」でないものにいちいち反応しないためにも、ヨガ哲学を学び続けているわけですが、難しいなぁと思ってしまうことが往々にしてあります(自分が学んでいるヨガ哲学の先生に言わせれば、「難しい」と考えること自体がエゴに支配されているそうなのですが…)

そんな日々の中、新聞で興味深い記事に出会いました。
哲学者、森岡正博氏が「誕生肯定」の概念について述べられている記事です。
記事には「生きる意味は何なのか」という問いが何度も出てきます。
ヨガ哲学でも取り上げられる問いです。
その記事を読んで森岡氏の考えをさらに知りたくなり、氏の著書『まんが 哲学入門 ── 生きるって何だろう?』を手に取りました。

ところが、「生きる意味」についての考えを深めるために手に取った本書が、思いがけず「いま」についての考えも深めてくれました。
この本の中で、「いま」とは土俵のようなもの、と書かれていました。
土俵 ……
そんなふうに考えたこともなかったので、「どういうこと?」と思いながら読み進めたのですが、読むほどにその発想の秀逸さを感じさせられました。

あらゆる物事は「いま」の土俵の中へと生じ、「いま」の中で変化し、「いま」の中から消え去っていく。

「過去」も「未来」も「いま」の土俵の中に湧き上がり、そして去っていくのです(ちなみに、「いま」の土俵に湧き上がる「未来」の例として、「私が老いる」や「私が死ぬ」などがあります)

いやぁ、おもしろい。

この「いま」の土俵を知ってから、「いま」というものが私の中で明確になった印象があります。
聞こえてくる音、目にみえる風景、ビルの壁に反射する光、飛んでいく鳥、呼吸している胸の動き、浮かんでは消えるイメージ……
それらは全て、「いま」の土俵に次々と湧き上がってきているのです。

そして森岡氏は、「それはなんて喜びに満ちた出来事なのだろう」と書かれています。
たとえ世界が、どうしようもない退屈、ウツの気分、耐えがたい痛みや苦しみに満ちていたとしても、それらが「いま」湧き上がってくること自体は、たとえようもなく喜ばしいことであるのだ、と。

湧き上がってくる痛みや絶望があまりにも激しい時、湧き上がりの喜びを見えなくさせてしまうこともあります。
それでも、湧き上がらせてくる力そのものは喜びに満ちた力。
気持ちの良いことも耐え難いことも、すべてひっくるめて「いま」の世界に湧き上がらせる力こそが喜ばしい ── 。
何事もジャッジしない、というヨガ哲学の考え方に通じるなぁと思いながら読みました。

ほんとうに生きるためには、「いま」を生きることが必要です。
過去のできごとを思い悔やんだり、未来をいたずらに恐れたりすることなく、「いま」、を生きる。

真に豊かな世界とは、新しいものが絶えずに次々と湧き上がってくる「いま」です。
そんな豊かな世界を生きるために、「いま」に意識を向ける練習を、続けていきます。

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