明日はムーンデイ、満月です。
ヒトも自然の一部です。
月の満ち欠け、潮の満ち引き、
日が昇り日が沈み、季節が確実に巡りゆく …
その大いなる循環の中で生かされています。
そんなムーンデイを前に、知識は道具である、ということについて思いを巡らせてみました。
前回のムーンデイでは、物はなんのためにあるのか、ということについていろいろと考えました。
私たちが物質世界に生まれてきたのは、物を通じて理解するため。
つまり、物は理解するための道具としてあるのでした。
今回はその考えをもう少し押し進めます。
知識偏重教育。
最近の教育現場がどうなっているのかは知りませんが、かつての教育方法は疑いようもなく知識偏重でした。
知識を増やし、知識を多く持っているかどうかで評価される教育。
詰め込み教育などとも揶揄され、
その反動でゆとり教育に舵が切られ、
しかし学力低下を招いた結果ゆとりもやっぱりダメ、
ということで、今はどうなっているのでしょう ……
いずれにしても、そこに欠けているのは「知識は何のためにあるのか」という視点でした。
知識はなんのためにあるのか ──
タイトルに書いてしまっていますが、
知識は体験するための道具としてあります。
前回の記事で書いた「物」も、体験するための道具でした。
物があるからこそ物を通じて体験し、気づき、理解することができる。
それと同じように、
知識があるから体験を深め、気づき、理解に繋げることができるのです。
でも、
知識偏重思考に侵されていると、なかなかそのように考えることができません。
知識があればあるほど立派な人。
知識があればあるほど自分は賢い。
ついつい、そのように考えてしまいがちです。
でもそれは、知識を通じて自分自身を認識している、
つまり、自分と知識を同一視しているということであり、
自分と物を同一視する「最高級品を持っている自分はすごい」と同じ発想です。
では、知識は体験するための道具である、とは
具体的にどういう意味なのでしょうか。
知識に限らず体験するための道具は、性能が上がれば上がるほど良質な体験につながります。
グリップの効かないツルツルの滑りやすいマットでアーサナの練習をするよりも、
グリップがしっかり効いて手足がピタッと止まるマットで練習する方が、より深くヨガを味わうことができます。
勉強も同じです。
勉強すればするほどこの世界のことがよく分かり、この世界をより深く見て、理解することができるようになります。
だから、体験するため、理解するための道具である知識の性能を上げるために勉強します。
表面上は同じ勉強をしているように見えても、
知識と自分を同一視しているのか、
知識を道具として認識しているのか、
本質は全然違います。
勉強をして知識をいくら集めても、「何のために」という意識がなければ、ただの収集になってしまいます。
知識という道具をただ集めるのではなく、
集めた道具を磨き、
利用しなければ意味がありません。
それが、
知識は体験するための道具である、
ということです。
こんなことをつらつらと考えていたからか、最近読んだ本の中で関連するメッセージにたくさん出逢うことができました。
『答えより問いを探して』は、題名がそのものずばりですが、
教育で得られる正解よりも、正解のない問いに自分にとっての答えを見つけ出すことが大切だと教えてくれます。
『夢を叶えるために脳はある』は、脳科学者が知的好奇心旺盛な高校生と脳にまつわるあれこれを語り合う長大な思考の旅ですが、著者がこんなことを言っています。
「私たちが自分の生き方に対して問うべきは『人生にどんな意味があるか』ではなく、『どんな意味のある人生にしたいか』です。意味を訊くのではなく、意味を創り出す。外部に答えを求めるのではなくて、自分の内側に答えをこしらえる。このプロセスにこそ、ヒトが生きる意味があります。」
そしてローベルト・ゼーターラーの小説『キオスク』の中では、 迷える17歳の少年フランツに、フロイト教授がこんな言葉を投げかけます。
「道を知っていることがわたしの使命ではない。道を知らないというのがわたしたちの運命だといえる。わたしたちは答えを見つけるためにこの世に生まれてくるわけではない。疑問を呈するためなのだ。」
知識偏重は答えを求める姿勢です。
正解を求め、集めるだけで利用しない。
でも、道具は使ってこそ生きてきます。
正解のない問いに自分なりの正解を見つけるために、
自分の内側に答えをこしらえるために、
疑問を呈するために、
知識という道具を利用します。
自分の道具の性能を上げる。道具を磨き上げる。
そのために勉強するのだと思うと、学ぶことそのものが楽しくなってきます。
知識を集めるのではなく利用するために、これからも学びつづけます。