今日はムーンデイ、新月です。
ヒトも自然の一部です。
月の満ち欠け、潮の満ち引き、
日が昇り日が沈み、季節が確実に巡りゆく …
その大いなる循環の中で生かされています。
そんなムーンデイに、物に対する意識について思いを巡らせてみました。
この世に生まれてから今日この時まで、いろいろな物を手にしてきました。
買ってもらった物、自分で買った物、贈られた物、いつの間にか手元にあった物 ……
大量の物を入手し、処分し、手に入れ、始末し、
その繰り返しの末に、今も私の手元に残っている物があります。
そんな物たちですが、処分するたびに僅かに心に引っ掛かるものがありました。
特に、思い入れのあった物は困ります。
無造作にゴミに出すのは忍びないし、
ではどうすればいいのかと考えてもはっきり分からない。
ある時、引越しを機に大量の物を断捨離しましたが、
その以降は処分する時のことを考えてしまい、
物を持つことに対して少し臆病になっていました。
そんな物に対する意識について、
私が学んでいるヨガ哲学の先生がヒントをくださいました。
物はなんのためにあるのか ──
そんなことを考えたことがあるでしょうか。
私たちが住むこの地球は、見て触れることのできる物質で成り立っています。
毎日生きて活動しているこのカラダも、物質です。
そんな物質世界に生まれてきたのは、
「物を通じて理解する」
ためです。
カラダという物(質)があるから、生きていることを体験できます。
カラダを通してさまざまな体験をし、そこから何かに気づき、理解が生まれます。
今、手にしている物があるから、手にすることで生じる体験ができます。
その物を持つことで感性を高められるかもしれませんし、新たな感情に気がつくかもしれません。
こうした体験を通じて得る理解は、物がなければ実現しません。
物を否定し、物を排除しては、理解する機会も失ってしまうのです。
物はなんのためにあるのか ──
それは、物からさまざまなこと(究極的には自分自身)を理解するためなのです。
そんな大切な物ですが、物を持つときに気をつけなければいけないことがあります。
それは、その物に執着すること。
自分自身とその物を同一視してしまうことです。
例えば一点モノの逸品を手に入れた場合。
その逸品を手にし、自分の感性を高める経験をするならば、
そこから何らかの理解につながる可能性が高くなります。
ですがその逸品に執着し、手放し難く思い、
そんな逸品を持っている自分はすごい、
などと思ってしまっては、理解から遠ざかります。
物を持つことを否定する必要はありません。
大切なのは、物を手にする時の意識の持ち方なのです。
なぜそれを持つのか。
何のためにそれを持つのか。
表面的に持つのではなく、それから何を体験し、気づき、理解するのか。
物は理解するためにあるのであり、執着するためにあるのではない。
そんなふうに考えることができるようになれば、
物を持つことに対して臆病になることも、
過剰に身構える必要もなくなるはずです。
とはいえ、私もその考え方がすぐに腑に落ちたわけではありません。
物は理解するためにある
と言われても、
好きなものは好きだし、執着もするし、そんなにきっぱり割り切れない ……
と、どうにも釈然としないものがありました。
それでもしつこく考え続けているうちに、何かが分かりかけた感覚がわいてきました。
「物を通じて理解する」
ということを
「物によって体験することで気づきを得る」
というふうに段階を踏んで捉え直してみると、ふっと納得がいったのです。
なぜなら、体験して気づかなければ始まらないのですから。
体験して、気づいて、その先に理解があるのです。
私たちは、体験(して気づいて理解)するために生まれてきました。
物は、その体験を手助けするための道具の一種です。
カラダも物も、この世界を体験するための道具である。
そんなふうに思考を切り替えると、
物に執着することで体験の幅を狭めることは本末転倒なのだ、
とわかります。
物を持つことに執着するか、物を持つことで理解を進めるか。
今の自分がどちらの状態なのか、自分の意識をみていくことが大切です。
そして、物に対する意識の持ち方を自分の中で整理できれば、
自ずと執着もなくなるはず、です。
物から理解するという意識。
全ては体験するための道具なのだという認識。
物に対する意識の持ち方を間違えないように、ヨガの学びを続けていきます。