昨日はムーンデイ、新月でした。
ヒトも自然の一部です。
月の満ち欠け、潮の満ち引き、
日が昇り日が沈み、季節が確実に巡りゆく …
その大いなる循環の中で生かされています。
そんなムーンデイの後に、エゴはわるいものなのか、ということについて思いを巡らせてみました。
ヨガを少し深く学んでいくと、エゴの問題とぶつかります。
エゴ(ego)。
ラテン語では「私」という意味ですが、「自我」という意味の方が一般的に知られています。
そんなエゴ。
「エゴイスト」や「エゴイズム」の略でもあるように、あまり良い印象がありません。
「エゴサーチ」という言葉も広く浸透していますが、それにも「自尊心」や「うぬぼれ」といったネガティブな印象が付き纏います。
それではやっぱりエゴはわるものなのでは?
と考えてしまいそうですが、そう考えるのは早計です。
エゴとは「私という意識」です。
自分を自分だと認識する意識、
自分を他者や外界から区別する意識です。
そんな「私という意識」があるから、この現実世界を体験できます。
私という意識がなければすべてを無秩序に受け入れて、ともすれば洗脳状態に陥ります。
それでは、自分自身の人生を歩むことができません。
そう考えると、「私という意識」であるエゴは、生きていく上で大切な道具なのです。
ならばなぜ、エゴは否定的な意味で使われることが多いのでしょうか。
エゴが問題である、障害であると勘違いしてしまうのはなぜなのでしょうか。
それは、エゴの特性と、それが創り出す結果を切り離せないことにあります。
エゴは、「私という意識」で世界を見ます。
その世界(現実)は、二元性を基本としています。
「私」という意識が「あなた」と対で存在するように、陰と陽、光と影、男と女、生と死、意識と肉体…
地球に生まれた以上、人は二元性の中で生きていくことが前提です。
そんな二元性は、エゴの特性のひとつでもあります。
「私という意識」は、自分が時間をかけて作り上げてきた意識。
その意識は、常に物事を判断しています。
善悪、損得、好き嫌い、勝ち負け、最高最低、YesNo …
エゴが創り出す価値観です。
ここで問題になるのは、エゴではなく、エゴが創り出す二元的価値観。
その二元的価値観から執着を生じさせることが問題なのです。
良いと思ったものに強く惹かれる、好きだと思ったものに心を奪われる、最高のものでなければ満足できない …
そんな執着が想念を生み、心の奥底にどんどんと溜まっていくことが問題になります。
ヨガ哲学を学んでいると、太陽と雲の例え話を聞いたことがあるかもしれません。
太陽の光はアートマンの知恵(理解)を表し、雲は太陽の光を遮る想念です。
想念が溜まれば溜まるほど雲は厚くなり、太陽の光は遮られ、理解からは遠ざかります。
エゴは善くも悪くもありません。
「私という意識」が現実を体験し、
さまざまな価値観(考え方、感じ方)を生み出しているだけなのです。
その生み出されたものは、
今の自分が目の前の世界をどう受け止めているのかを
理解するための手がかり。
今の自分を知るためのヒントです。
それは、不都合な考えかもしれません。
不快な感じかもしれません。
でも、それに囚われたら、ジャッジしたら、新たな想念を生み出します。
大切なのは、ただ気づくこと。
自分が世界をどう受け止めているのかに気づくこと。
与えられたヒントで何かに気づいたら、「あぁそうなのか」。
それだけです。
囚われず、ジャッジせず、手放します。
『ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日』(2013年日本公開)という映画があります。
アン・リー監督が贈る感動のアドベンチャーで、驚異の映像美が世界中を魅了しました。
そんな『ライフ・オブ・パイ』は哲学的要素にも溢れ、見るたびに違う視点を与えてくれます。
数年ぶりにその映画を見て、主人公のある言葉が心に響きました。
「彼がいなかったら僕はとっくに死んでいる。
彼への怯えが僕を警戒させ、彼の面倒を見ることが生き甲斐になっていた」
彼というのは、エゴの象徴であるトラです。
エゴがいることで自分は生きていられる。
エゴがなくなったら自分も生きてはいない。
エゴを否定するのではなく、仲良く付き合うことが大切なのだ ──
ということを強く感じさせる言葉でした。
エゴ(ego)。
確かに厄介なところもありますが、自分を教えてくれる大切なものです。
そんなエゴと、できるだけ仲良く付き合えるように …
ヨガの学びを続けていきます。