今日はムーンデイ、新月です。
アシュタンガヨガでは、ムーンデイには練習を行いません。
いつもは練習している時間に、「人生に意味はない」ということについて思いを巡らせてみました。
先月のムーンデイに、「むなしさ」との付き合い方についてつらつらと書き綴りました。
不意に訪れるむなしさ。
そのむなしさに悩まされる日々の中で私が出会った言葉。
それが、
「人生に意味はない」
でした。
最初聞いた時には受け入れ難く、
しかし私の心を軽くしてくれたこの言葉について、
もう少し考えを進めてみました。
人生に意味はない。
その言葉が、なぜ私の心を軽くしたのでしょうか。
逆に考えれば、私の心を重くしていたのは「人生に意味がある」という思考です。
意味を価値と言い換えてもいいかもしれません(私にとってはこちらの感覚の方が近いかもしれません)。
では、価値があるとはどういうことでしょうか。
それは、物事がどれくらい役に立つかの度合いや値打ちを表し、
「よい」といわれる性質なども含まれます。
ところで、こうした価値評価は一体誰の評価でしょうか。
誰にとっての値打ちを表し、誰にとっての「よい」なのでしょうか。
この「誰にとって」が、
一般的には世間であることが少なくありません(少なくとも私の場合はそうでした)。
世間で価値があると言われているものに価値があり、
世間でよいと言われているものがよい。
例えば、
学校の成績、就職先、資格、収入、地位、名声、立場、環境、容姿 etc.
とにかく、
そうした世間で評価されているものに価値を置き、
そしてその価値を得ることが人生だと考えていたので、
得られていないという意識が私の心を重くしていたのでした。
ところが、世間の評価というものはころころと変わります。
ちょっと前に価値があるとされていたものが、
今ではすっかり忘れ去られている ──
などということもざらにあります。
そうしたころころと変わるものは真実ではない、とヨガの哲学は教えます。
ヨガが教えるたったひとつの真実は、変わることがない不変のもの(本当の自分)である、と。
ころころと変わる世間の評価という価値を求め続けることは不毛です。
だから、そんなものは求めなくてもいいのだという「人生に意味はない」という言葉が私の心を軽くしたのでした。
では、世間の評価にふりまわされるのではなく、自分の価値観を優先させればいいのでしょうか。
それもやはり違います。
自分の価値観だと思っているものも、
結局は世間の影響を多分に受けて形成された、世間の評価のレプリカです。
付き合う人や時代、社会情勢、学習や経験などによって変化していき、
やはり真実ではないのです。
人生に意味はない。
意味を探さなくてもよい。
この人生に意味や価値を求めないのなら、
ではこの人生をどのように生きていけばいいのでしょうか。
それは、自分自身の誤った想念を手放していく生き方です。
何かを得ようとするのではなく、手放す。
人生の意味を、価値を、得ようとするのではなく、手放す。
誤った想念は二元的な価値観が生み出します。
良いと思うから欲しくなるし、好きだと思うから執着する。
人生の意味という考えも誤った価値観のひとつです。
そうしたものを手放しながら生きるのです。
そのためには、まずは二元的な価値観からの脱却が必要なのですが、
学校教育で刷り込まれた思考の癖は簡単には抜けてくれず、
気がつくとジャッジしています。
でも、気づくことはできます。
「あ、今ジャッジしたな」
それに気づいたら、手放すのです。
気づけたら、手放すことも可能です。
そんなふうに想念を手放していくと、心が軽くなります。
そう、「人生に意味がない」が腑に落ちた時のように。
心は軽くなったり重くなったり、その繰り返しですが、
重くなっていたら、また誤った想念を抱え込んでいると気づくチャンス。
繰り返しながら少しずつ手放していけばよいのです。
だんだんと軽くなっていく。
その過程を楽しみながら、学び続けたいと思います。