明日はムーンデイ、満月です。
アシュタンガヨガでは、ムーンデイには練習を行いません。
そんなムーンデイを前に、良いとか悪いとか、つまり「ジャッジする」ということについて
思いを巡らせてみました。
ヨガ哲学では、ものごとをただ観察する、ということを大切にします。
ヨガ哲学でキーワードになる言葉「アートマン」。
それは、人間の存在の根源を意味し、私を今ここに存在させているものの本質を表します。
真我、と訳されたり、
純粋精神、魂、などと言われることもあります。
そんな人間存在の根源、アートマンは、
ものごとを一切判断せず、ただ観察している存在で、
ヨガは、そのアートマンにつながるための教えです。
しかしながら私はよく、
良いとか悪いとかの思考に囚われます。
日常生活のさまざまなところで、
無意識のうちに、
あれは良い、あれは悪い、
これは正しい、これはダメ、
と判断を下し、
下したことにより悶々としています。
こうした思考は、今学んでいるヨガの教えの対極であり、
今のところ私の中で、物事の本質を理解するための最大の妨げになっています。
あぁでも、止められないのです。
まるで条件反射のように瞬間的にジャッジしてしまうこの心の作用。
気がつくとすでに判断を下している。
これをどうにか止められないものか、
と思っていたのですが …
ところが最近読んだ本で、
そのジャッジは脳の反応として行われているのだと知りました。
自らの思考が働くその前に、すでにジャッジしている脳。
すなわち、反射です。
反射かぁ。
そりゃ、止められるわけないわなぁ。
レモンを見れば唾液が出るように、
膝を叩けば足が上がるように、
何かを見た反射としてジャッジする。
そして脳は、
正しさなどという概念をそもそも持ち合わせてはいないそうです。
そんな脳が下すジャッジの基準は
「どれだけその世界に長くいたか」。
つまり、
「どれだけそれに慣れているか」。
慣れが「正しい」という信念を生みだし、
慣れとは体験、記憶の積み重ねです。
私が今ここにいる、
その「ここ」に至るまでに体験してきたこと、
積み重ねてきた記憶、
さらに言えば、
前世からのサムスカーラも絡んでジャッジが下されている。
ジャッジするという反応は、それほどに根深い。
だからこそ、
良いとか悪いとかに振り回されていると、自分を見失ってしまうのです。
私はジャッジすること自体を止めようと足掻いていましたが、
そんなことは無理なのです。
だって、反射なのですから。
ではどうするか。
ただ、気づくだけです。
「あ、今ジャッジしたな」。
変えられるのはそこからです。
無意識の反射に引き摺られるのか、
それとも、
気づいてそこに留まるのか。
ジャッジすること自体には良いも悪いもありません。
レモンを見て唾液が出ても、それはただの生理現象。
それと同じです。
今までは、
良いとか悪いとか、
正しいとか間違っているとか、
とにかく色々ジャッジして、
そんな自分をダメだなぁとまたジャッジして、
ジャッジして、ジャッジして、ジャッジして …
でもそれでは、堂々巡りの無限ループです。
だから、
そのジャッジはただの脳の反応ないのだと知ることは、
この堂々巡りを止めるきっかけになります。
ジャッジは脳の反応であり、
それは私の人生の積み重ねなのだと思うと、
必死にジャッジしている脳がなんだか愛おしくも感じられます。
その愛おしい脳が、
不都合な感情を生み出し、
私を苦しめ、
気づいてそこに留まること(=観察)の難しさを突きつけてきたりもするのですが、
それがこの世界を体験するということです。
観察が簡単にできたら苦労せんのよねぇ、
と思いつつ、
でも簡単にできたらもうこの世界で学ぶことはないのかもねぇ、
とも思います。
まぁ、そんな境地に到達するのは遥か先のことですから、
今はただ、
ジャッジしたら気づいて留まる、
その練習です。
そうそう。
先の本によると「正しい」は「好き」の言い換えにすぎず、
好きになることは脳の物理的構造そのものまで変化させるのだそうです。
おぉっと。
構造さえ変えて反応しようとする脳。
その反応を作り出すのが慣れであるならば、
やはり、
日々の練習しかないようです。