明日はムーンデイ、満月です。
アシュタンガヨガでは、ムーンデイには練習を行いません。
そんなムーンデイを前に、PERFECT DAYS、完璧な日々ということについて
思いを巡らせてみました。
先日、ヨガ哲学を学ぶ中で、
映画『PERFECT DAYS』のこの題が意味深ですね、
という話になりました。
そこで先生が質問されました。
PERFECT DAYSとはどんな日々なのでしょうか?
二元的価値観にとらわれない感覚で過ごせる日々。
アートマンに向き合い、余分なことを考えない日々。
満ち足りて、
平穏で、
理想的な日々 ── 。
というような意見が出ましたが・・・
いやいや。
そんな日々を求めていたのでは、永遠にパーフェクトデイズは訪れてくれません。
では、どんな日々がパーフェクトデイズなのか。
ヨガ哲学の考えでは、
それは理が通った日々のことです。
理とは何か。
理とは、道理、ことわり、理由、わけ。
理が通っている状態は、
無理がない状態です。
この世界は、神の法則性で成り立っています。
目の前でどんなことが起きようと、
それらは、
完全な法則性の中で、一時の現象が起きているに過ぎません。
そうした視点に立った時、この世界に理のないことは一切ないのです。
では逆に、
理が通っていないとはどういう状態でしょうか。
それは、
外から強制的になにかをさせられている状態。
自分の理解がないまま、何かをしなければいけない状態。
「ねばならない」という思考に陥っている状態。
そういう状態の時、 理が通らずに頑張ってしまいます。
頑張らず、理を通すためにできることは、
「なぜなのか」と考えることです。
なぜなのかということを自分の中に落とし込むと、
理が通ります。
理を通すとは、やっている理由です。
なぜなのかという理由。
例えばアーサナをしている理由。
理が通った練習をしていれば、
カラダと心の快適性に繋がるはずですが、
理が通っていなければ、
できる/できないに囚われて、怪我(怪しい我)につながります。
普段の生活においても、
目の前の些細なこと、
面倒なこと、
今していること、
日常のあらゆることに、「なぜなのか」という理を通していく。
そうすると、毎日が自然になっていきます。
そして、人生の最大限の理は、
なぜ生きているのか。
そこに理を通せば、
人生そのものに無理が生じません。
反対に、
なぜ生きているのかという理を通さないまま進んでいけば、
人生が苦しいものになります。
自分自身のなかに完全に理の通された状態になった時、
それがパーフェクトデイズ。
自分のなかに理を通した生き方になった時、
その生は理と一体化し、
パーフェクトデイズがやってきます。
満ち足りて、平穏で、自分の理想の日々 ──
そういうことではなくて、
あらゆることがパーフェクト。
混乱があろうと、穏やかでなかろうと、
理が通っているならばそれがパーフェクトデイズ。
一般的に想定される理想的な日々とは違うのです。
うーん。
難し過ぎてよく分からない。
そうですよね。
ヨガ哲学は、その理を自分の中に落とし込む作業です。
日々そうしようと努めていても、なかなか思い通りにはいきません。
そんな時は、頭(エゴ)で考えないために、快適性を追求します。
カラダと心が快適な方向が、理が通っている方向です。
練習もカラダの快適な方向を目指す。
生き方も快適な方向を目指す。
自然に流れて快適な方向を感じていく生活をする。
そのためには、感覚を研ぎ澄ますしかありません。
カラダの、心の感覚が一番正しくて、頭でっかちな私に教えてくれます。
考えるのではなく、感覚。
頭(エゴ)の考えではなく、感覚。
その感覚を研ぎ澄ますために、これからも練習を続けていきます。