「ブレイディさんがどういう思想と知性の持ち主なのかをもっと知りたい方は、ぜひこちらを」
と、『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』のあとがきで紹介されていた『アナキズム・イン・ザ・UK』。
その前半が収録されている『オンガクハ、セイジデアル』を読んだのですが、そうなると「『底辺託児所』シリーズ誕生」と銘打たれた姉妹編の本書も気になるところ。
というわけで、姉妹編、読んでみました。
それが人生というやつ
本書の構成は、
第1章 「底辺託児所」シリーズ誕生(全体の約3分の2)
第2章 映画評・書評・アルバム評(全体の約3分の1。アルバム評多し)
となっています。
第1章の底辺託児所(およびその周辺)は、相変わらずのカオスです。
「俺のすることに理由はない」「理由のないことをするのは楽しい」とのたまう4歳の凶暴児。
完全にイッてる目つきでへらへら笑って人形を逆さ吊りにする5歳のゴシック・トドラー。
どんな声掛けにもひたすらFワードで世のすべてのものを否定する1歳の反逆児。
そして、
「Life is a piece of shit」と言いながら茶色い粘土で熱心に”ドラゴンのうんこ”を製作する4歳児。
はぁ。
この子どもたち、一体どうなっちゃうの、
とため息しか出ないような状態ですが、悠長にため息をついているような余裕はありません。
見渡せば、相変わらず幼児たちがノー・フューチャーな光景を繰り広げています。
そんな託児所の中で、ブレイディさんの子どもたち相手の奮闘が続きます。
でもその奮闘に何やらあたたかさを感じるのは、著者が子どもたちに接する姿勢にあるのだと思います。
「まったくもってこのガキどもは」、と荒い言葉を吐きながらも、子どもだからとバカにしない。
それどころか、一片のクソの如き人生と向かい合い、受け入れ、消化しようとしている彼らに、
「私は最大のリスペクトを払うものである」と書かれています。
あぁ、いいなぁ。
年齢も人種も性別も関係なく、人と人として一緒に奮闘しているその様子。
大人も子どもも愛が摩耗しそうな状況の中、でもそれが人生と受け入れて、その環境でとにかく生きる。
パワフルな著者にも、傍若無人な悪ガキどもにも、殺伐とした現実に負けないエネルギーを感じます。
権力を倒せだの俺は反逆者だの戦争反対だのセックスしてえだの、そういう言葉がロックという様式芸能の中の、まるで歌舞伎の「絶景かな、絶景かな」みたいな文句になり、スーパーのロック売り場に行儀よく並べられて販売されているときに、ボウイは「老齢化」という先進国の誰もがまだしっかり目を見開いて直視することができないホラーな真実を、ひとり目を逸らさずに見据えている。そんな気がしたのである。
p324
前述したように、
本書の約3分の1を占める第2章は、本、映画、アルバムのレビューが収録されています。
あぁそれなのに、そのほとんどを理解できないこの残念さ。
デヴィッド・ボウイのファンではないと言い切る著者が、
ボウイの追悼に際して記したこの文がなんとかピンとくる程度、
という馴染みのなさ。
ブレイディさんの語る熱が伝わってくるだけに、「わからなくてごめんなさい」という感じです。
それだけわからないのに、文字を追う目が止まらない。
途中で止められない。
結局、最後まで読み切りました。
その上、
ボウイのアルバム(でもやっぱりボウイ止まりですが)を、YouTubeで探して聴いたりなんかして。
いやぁ、ここに書かれている作品全部を知っていたら、どれほど面白いレビューなんでしょうか。
知っている方が羨ましい。
知っている方はぜひ読んでほしい。
そんなことを思った第2章です。
姉妹本『オンガクハ、セイジデアル』と同様、馴染みのないロックの要素を差し引いても十分楽しめ、かつ考えさせられる内容の本書。
底辺託児所の責任者に
「一年前は、なんで私はここにいるんだろう、みたいな情けない顔をして働いていたものだけど」
と揶揄される著者が、悪ガキたちと共にますます骨太になって、あの『ぼくはイエローで〜』の数年後に繋がっていくのかと思うと、なんだか感慨深いものがあります。
ブレイディさんの紡ぐ、清々しいまでにリアルな底辺の社会。
そこには夢も希望もなさそうで、突きつけられる現実はノー・フューチャーなのに、読むとなぜだか元気になります。
ヤバげなことをさらっと書いてパンチの効いた文章の魅力から、ますます抜け出せそうにありません。