新聞の書評欄に載っていた本書。
その「嫉妬」という文字に、強く目が引き寄せられました。
子どもの頃から絶え間なく、熾火のようにちろちろと燃え、普段は鳴りを潜めているものの、何かの拍子に燃え上がる ── 。
そんな「嫉妬」。
本書は、なにかと厄介なこの感情に迫っているらしい。
どうせ逃れられないのならこちらから知ってやろう、と手に取りました。
私の嫉妬は私だけのもの
嫉妬心はやり過ごすことができない。
この本を読んで突きつけられたのは、そんな諦念ともいえる感慨です。
なんせ人は、どんな状況でも嫉妬するし、嫉妬してきたし、嫉妬している。
その事実を、本書の数々の言説が証明します。
そもそも嫉妬心は、自分と他人とを比較することによって生まれるそうです。
まぁ、それはそうでしょう。
では、他人と比較することさえやめられれば、嫉妬の問題は解決するのでしょうか。
ことはそう簡単ではありません。
なぜなら、他人と比較することなく生きていくことは、それほど容易なことではないからです(私たちがすでに経験として知っているように)。
嫉妬は場所を選ばず(巡礼地に訪れる巡礼者や、極限状態にある収容所の囚人たちの間でさえもこの感情は起きる)、
たとえ自分が損をしようと隣人の不幸を願うほどの自暴自棄ささえある。
たとえ嫉妬心を生み出すある状況を均等にならすことができたとしても、嫉妬はまた別の差異へと憑依するし、
目に見える差異(例えば階級制度など)がなくなり一見平等が達せられたとしても、
やはりそこに最小限の違いを見つけ出し、飽くことなく嫉妬する。
さらに、現代の民主社会においては、
かつては明らかに優位なものに向けられた嫉妬が対等な隣人同士の嫉妬心へと変形し、
くすぶり、
より陰険なものへと向かっています。
目標達成率やランキングなど、あらゆることが数値化され競争心を煽る現代社会は、
嫉妬心にとって格好の繁殖場所なのです。
いやいや、本当に厄介です。
ただでさえ厄介な嫉妬という感情が、現代社会では繁殖のし放題。
地域で、社会で、ソーシャルメディアで …
今この瞬間も至る所で増殖を続けています。
けれど、そんな厄介な嫉妬心は、確かに私の一部でもあるのです。
「あなたはあなたのままでいい」であるとか、「他人と比較するのはやめよう」などと諭す嫉妬の対処法のような自己啓発本が巷には溢れている。こうした言説のほとんどはずいぶんと無邪気なものだが、だからと言って無害なものとは言えない。この種の提言は、現実の嫉妬から目をそむけ、私たちがそれに真剣に向き合うことを妨げることがある。(中略)
p235
嫉妬に何かしら意味があるとすれば、それはこの感情が「私は何者であるか」を教えてくれるからである。たいていの場合、私の嫉妬は他人には共感されない、私の嫉妬は私だけのものである。私は誰の何に嫉妬しているのか、なぜ彼や彼女に嫉妬してしまうのか。これは翻って、私がどういう人間であるか、私は誰と自分を比べているのか、私はどんな準拠集団のなかに自分を見出しているかを教えてくれるだろう。(後略)
本書を読めば読むほど、嫉妬という感情からは逃れられないことを痛感します。
嫉妬心はなにしろ、自分より劣位のものに対してさえ起こるのです。
嫉妬とは、
何らかの条件がある場合にのみ生じるような慎ましいものではなく、
いくら成功しようが、
いくら豊かになろうが、
「それにもかかわらず隣人の成功や幸福が気になって仕方がない」、
そうした不合理で言い訳のきかない感情なのです。
本書の想像しうる限り多角的で広範な嫉妬感情の考察は、
嫉妬がいかにしぶといものであるかを示し、
そしてそれが、
私たちの生きる民主的社会の必然的な副産物であることをも提示しているのです。
著者は、嫉妬心に愛着を感じることがある、と記します。
嫉妬は確かに困った感情だが、ある意味で最も人間らしい感情に思えたし、ときにそのおろかさや不合理が滑稽に、愛すべきものに感じてしまうことすらある、と。
片や私は、知ってやろうと思った嫉妬という感情のしぶとさに、少々慄きつつ、感嘆もしています。
心のひだにするりと入り込んでくる嫉妬心。
いやそれは、いつでも私とともにあるのです。
嫉妬がこれほど密接に私たちの心と関わっていたとは、恐れ入りました。
確かにこれは、嫉妬心を愛すべきものと慈しみ、上手に付き合っていく方が賢明かもしれません。
嫉妬は厄介。
嫉妬はダメ。
そんな通り一遍のまなざしを嫉妬心に向けることはたやすいですが、
それで終わってしまうのはもったいない。
さぁもう一段深く。
心の暗部を覗き込み、この感情を受け入れて、「私は何者であるか」を教えてもらいましょうか。