先日読んだ、河合隼雄先生の『こころの処方箋』のあとがきで、
「『呪文』という言葉は、実は遠藤周作『生き上手 死に上手』(海竜社刊)から教えられたことである。正しいとか正しくないとか、教えられるとか言うのではなく、『呪文』を唱えていると心が収まるのである。私は『ふたつよいことさてないものよ』という呪文が好きで、よく唱えている。この呪文を唱えると納得がいったり、楽しくなったりするのである。」
と書いてあるのを読み、久しぶりに遠藤周作の著書を読みたくなりました。
無明のなかの光
ヨガ哲学でよく使われるたとえ話に、暗闇の中の蛇のお話があります。
暗闇に恐怖を抱いていると、道端に落ちている縄でさえ蛇に見える ──
というものです。
縄が蛇に見えるような勘違いは、「恐怖心」という心の作用が原因です。
恐怖心が真実を見る目を奪い、蛇との遭遇という結果を作りだしてしまうのです。
ですがそこであかりを灯せば、
縄しか落ちていないことに気付き、恐怖心は消え去ります。
つまり、
恐怖心などの誤った心の作用を手放すためには真実を見るための光が必要だということです。
それが、無明のなかの光。
人生の苦悩を生みだす思い込み(無知)に亀裂を入れ、真実を見極める智慧です。
誰にでも人に言えぬ秘密がある(正宗白鳥)
「俺にはそんな、やましい秘密などない」「わたくしにもそんな恥ずかしい秘密などない」とこれを読まれて思われた読者がおられれば、私は一方では羨望を感じるが、他方では、その人たちは何というツマらぬ表面的な人生しか持たなかったのだろうと考えてもしまう。
p12
心より心を得んと心得て 心に迷ふ心なりけり(一遍)
この人生のなかで何よりも我々がもてあますものは心である。心を制禦(せいぎょ)しようとして、それが本当にできたという自信のある人は私には羨ましい。しかしその人が本当に心のなかにひそむ矛盾撞着を噛みしめて制禦したのかどうか疑わしく思うけれども。
p15
暗闇と蛇のたとえ話が成立するのは、
完全な闇の中でもあっけらかんとした光の中でもなく、
薄ぼんやりとした薄闇の中においてです。
完全な闇の中では何があるのか気がつかないし、
光の中では勘違いのしようもありません。
完全な闇というのは何も知ろうとしない完全な無知。
光の中というのはすでに悟った状態。
そして薄闇は、その間です。
心の作用というものは、
完全な無知の闇から一歩、また一歩と踏み出した後に動き出すのです。
完全な無知の闇から一歩踏み出すというのは、
自分の不都合にも向き合うということです。
自分の奥底にある秘密や矛盾をなきものとして無視するのではなく、
それに相対する。
それは決して愉快なものでも快いものでもありませんが、
しかし光に近づくためには必要なことなのです。
遠藤周作の作品に惹かれるのは、
清濁併せ持つ人間を当然のものとし、
清と濁の間で揺れる矛盾を味わうことこそ人生であると示してくれるからです。
かつて自分の矛盾撞着に抵抗し、生きることにとことん嫌気がさしていた頃、
秘密や矛盾のない人生の何が面白いのか、
という著者のメッセージにずいぶん慰められました。
心の奥底を覗き込むような純文学と、
狐狸庵先生の軽快なエッセイを交互に読んでいたあの頃。
当書には遠藤周作のそのふたつの要素(人格)が違和感なく織り込まれ、
時に思案し、時に吹き出しながら楽しむことができました。
河合隼雄先生のことばで気になり、久しぶりに読んだ遠藤周作の著書は、
今でも全く色褪せず、
今回も私の中に多くのエッセンスを残してくれました。