《書評》『言語の本質 ことばはどう生まれ、進化したか』今井 むつみ、秋田 喜美

読書

今年の2月ごろの新聞だったと思いますが、「新書大賞2024」に選ばれた本書が大々的に宣伝されていました。

ことばはどう生まれ、進化したか ──

この疑問に挑戦する認知科学者と言語学者の知的冒険に、大絶賛の推薦文。
「この本はすごい。本当に画期的だ」
「今からこの本を読める人がうらやましい」

そんな声を目にしては好奇心がかき立てられて、確かめずにはいられない気分になりました。

ところが、そうした気分になりながら読む機会が訪れないまま、早数ヶ月。
ここに来てようやく手に取ることができました。

言語の本質 [ 今井 むつみ、秋田 喜美 ]

推論の力

言語の本質を知る。

それが、この本を読む目的であるわけですが、
でもそのためには、
本書の副題にもなっている「ことばはどう生まれ、進化したか」を理解する必要があることを、本書を読みながら思い知らされました。
難解なところもありますが、そこを通らなければ言語の本質には近づけません。

その理解を助けてくれるのが、オノマトペです。
「くるくる」「ぐるぐる」「もふもふ」etc.
聞いて楽しく使って楽しいオノマトペ。

そのオノマトペを問うことは、言語の起源や言語習得の謎を問うことにつながり、必然的に「言語とは」という探究の旅を進んでいることになります。
そこからオノマトペを飛び出し、記号接地問題(認知科学で未解決の大問題)、AIとヒトの違い、なぜヒトだけが言語を持つのか、といったさらなる深淵へと踏み込んでいきます。

人間のもつ学習の力。
その力を駆動させる推論の力。

人間の子どもが知覚経験から知識を創造し、創った知識を使ってさらに知識を急成長させていく過程を描く終盤は、知的興奮が止まらない展開でした。

人間は、アブダクションという、非論理的で誤りを犯すリスクがある推論をことばの意味の学習を始めるずっと以前からしている。それによって人間は子どもの頃から、そして成人になっても論理的な過ちを犯すことをし続ける。しかし、この推論こそが言語の習得を可能にし、科学の発展を可能にしたのである。

p246

ことばはどう生まれ、進化したか。

そのことを突き詰めて考えたことがありませんでした。
「ことばとは何か」という疑問がうっすらと脳裏をよぎったことがないわけではありませんが、そこに踏み込むのは樹海に足を踏み入れるかのようで、そこにあえて踏み込むことはありませんでした。
それに、ことばは物心がついたころから当たり前のようにあり(と勘違いしていた)、さしあたってことばに不自由しているわけでもありません。

だから、新書大賞が発表された時も、第1位を受賞した本書よりも2位や3位の作品に興味を惹かれました。

ですが、宣伝の推薦文に好奇心をかき立てられ、筆者たちの探究の旅に伴走できたことは掛け替えのない道行きでした。

自分が毎日使っている言語。
私が物心つく前から学ぶ力を発揮し、試行錯誤の末に獲得し、そして今、使っている言語。
使えている言語。
それが、ことばが生まれ、進化し、巨大システムへと発展した言語なのです。
そんな言語の本質を問うことは、人間とは何かを考えることにもつながります。

人間は論理的な過ちを犯すことをし続ける。
けれどもそれ無くしては言語の習得も、それ以外の発展もなかったのです。

筆者たちが終章で書いています。

「知の創造に失敗と誤りはつきものである。その意味で、筆者たちの探究は、これからも続く。山登りの頂上がゴールではない。本書で展開した論考を拡張し、精緻にし、誤りを修正しながら、言語という宇宙の旅をこれからも続けていく。」

そもそも、本書で展開されている論考自体が筆者たちの仮説です。
ただし、根拠がない妄想ではなく、言語学、心理学、神経科学などの分野をまたがる多くの文献と言語データを採取し、吟味し、分析し、さらに自身でも実験したデータを集積して、最も蓋然性の高い結論として導きだされた仮説です。
この、筆者たちが進めてきた思考の道筋そのものが、アブダクション推論なのだそうです。

そのような推論を、ヒトは、ことばの意味の学習を始めるずっと以前からしている。
その事実に驚きを禁じ得ませんでした。

水や空気のようにあって当たり前だと思っている言語。
でもそれは、当たり前ではありませんでした。
言語を持つという人間の能力がどれほど得難いものであるか、
それを知らしめてくれる探究の旅でした。

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