《書評》『キオスク』ローベルト・ゼーターラー

読書

著者の『ある一生』の世界に引き込まれ、
同じシリーズ(新潮クレスト・ブックス)、同じ訳者の『野原』を読み、
そして本書が3冊目。

先に読んだ2作品が、
たいして大きな事件も起きない名もなき男の生涯や、
かつて小さな町に暮らした死者たちの悲喜交々の人生の語りを、
淡々とした枯れた描写で綴るのに対して、
本著は17歳の少年が主人公の青春小説。

今回はどんな世界が物語られるのか、期待を胸に最初のページを開きました。
( 結末を暗示する内容が含まれています。これから読まれる方はご注意ください。)

キオスク [ ローベルト・ゼーターラー ]

光は

「母さんがいつもいっていた。ぼくは柔肌だって。繊細で白くて柔らか。女の子みたいだっていうんだ。ぼくはそれをいわれるのがいやだった」

17歳の少年、フランツ。
オーストリアの景勝地を代表するザルツカンマーグートの田舎で平々凡々と暮らしていたフランツは、母のパトロンが嵐の夜に溺れ死んだのを機に、ウィーンのキオスクで働くことになります。

1937年のウィーン。
母が作る野菜のごった煮そっくりの喧騒の街は、朝から晩まで森を散策したり、桟橋でうつぶせになって日向ぼっこしたり、寝床にもぐりこんで夢想に耽る日々とは全く違い、胸がときめくうきうきした世界の始まりを感じさせます。

キオスクのイロハを覚え、知見を広めるために新聞を読み、キオスクを精神と快楽の殿堂と化するための葉巻に触れる。
客と顔見知りになり、癖を覚え、好みを頭に刻みつける。
毎週金曜日の午後、きれいな絵葉書を選んで母に短い手紙を書く……

そんなある日、ジークムント・フロイトに出会います。

有名な博士との出会いに浮き立つフランツ。
教授の本を全て読みます!というフランツに
「こんな老いぼれのほこりをかぶった本を読むよりも、ずっと楽しいことがあるだろうに」
「きみは若い。新鮮な空気を吸いたまえ。遠出をしたらいい。楽しみなさい。女の子を探したらどうだ」
と諭すフロイト。

その言葉に背を押されて遊園地にくりだしたフランツは、
輝くような金髪の女の子に心奪われ恋の病におかされて、
渦巻く混乱をフロイトにぶつけ、
夜ごとロウソクの灯を頼りに、いま見た夢を書きとめるようになります。

 一九三八年六月七日
 湖にはもっといい時代があった。ゼラニウムが夜中に光っているように見える。だけど、それは炎の光だ。昔もいまも、そのまわりでみんな踊っている。光は

p262

ウィーンで暮らした一年は、17歳の少年を、もう少年ではない未知のものに変容させました。

ウィーンを脱出するフロイトを見送るために赴いた駅で目に入ったガス灯は、
フランツがウィーンに降り立ったとき、めまいを起こしてしがみついた、あのガス灯。

髪の毛にまとわりつく森の香り、
靴先にこびりついた土の塊。
脳裏に去来するおかしな期待 ──

あの時の少年が、もうこの世にはいないことにフランツは気づきます。

嵐のように過ぎ去った初恋。
教授と重ねた対話。
今はもういない、キオスクの店主 ……

ナチスドイツが暗い影を落とす中、
それでも少年らしい素直さと潔癖さ、
そして抑えきれないエネルギーに従って
行動し、苦悩し、問い続け、闇の中を手探りしてきたフランツ。

懸命に生きる少年はいつしか殻を破り、
精神的に大きな成長を遂げていたのでした。

何も知らないフランツが、平和な田舎の地から上京してきたのははるか遠くの夏の終わり。
街全体が呼吸をしているかのような、
途切れることのない音の数々。
満ち満ちるまばゆい閃光。
音と光があふれかえる街の喧騒は、まるでフランツの心の期待を表すかのようでした。

けれど、
不穏な時代のうねりは幸せな時を許してはくれませんでした。

女の子みたいに華奢で軟弱で色白だったフランツが、
はっきりとした輪郭を纏う一人前へと早すぎるくらいに急速に成長していく様子が
やり切れなく、
痛々しく、
こんなふうに胸が締め付けられる思いで読むことになるなどとは、想像もしていませんでした。

さびれたキオスクのガラス窓に張り付いている、夢を記したメモ用紙の残骸。
かつて恋したあの女の子が、そっと剥がして持ち去ります。

フランツが最後まで紡いだ言葉が、
生きた痕跡が、
心に訴えかけてくる物語でした。

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