《書評》『めくらやなぎと眠る女』村上 春樹

読書

映画やドラマに原作がある場合、できるだけ先に原作に触れるようにしています。
なにせ、映像の力は強烈なのです。
映像は物語の輪郭を明確に描き、世界をそこに固定します。
映像を見てから原作を読んでも、そこに現れるのは映像で登場したキャラクター、映像で見た風景、映像で聞いた音たちです。
映像の枠を破り、物語世界をそれ以上に広げるのは、なかなかに困難なものなのです。

それに対して、想像の力は無限大。
なにものにも触れず、初めて原作を読む時に私の頭の中に描かれる世界は、如何様にも変化し、広がり、自由自在に発展していきます。

それがどれほど貴重なことか。
好きなキャラクターはどこまでも好ましく、美しい風景はどこまでも美しく、素晴らしい音楽は天上の響きのごとく鳴り響きます(おおげさ?いえいえ)。

ところが、映像に先に触れてしまったら、その醍醐味を味わうことが難しくなります。
反対は大丈夫なのです。
原作を読んでから映像を見る。
その場合、素晴らしい映像に仕上がっていたらさらに楽しめて得した気分を味わえるし、
ちょっと… な映像に仕上がっていたら、速攻忘れて自分の想像で補正します。

前書きが長くなってしまいましたが、
そういうわけで、村上春樹の作品が初めてアニメーション映画化されると聞いた時、
これはまず原作を、と手に取ったのがこの本でした。

めくらやなぎと眠る女 [ 村上 春樹 ]

村上の手腕

まず原作を、と手に取ったものの、なんというか… 原作ではありませんでした。
映画の題名と同じだったので、すっかり原作と思い込んでしまっていたのですが、
映画は村上春樹原作の短篇小説6篇を一つの物語として再構築した作品。
この本は24の短篇小説が収録された短篇コレクションで、
そのうち3篇が映画に関係している作品でした(「めくらやなぎと、眠る女」「バースデイ・ガール」「かいつぶり」)

つまり、映画に関わっている3篇しか読めなかったわけです。
がしかし、読んでいるうちに映画のことは忘れ、純粋に村上春樹の世界を楽しむことができました。

本書の裏表紙にこんな言葉があります。

「         村上の手腕の前では、  
    ジャンルという言葉は意味を失う。  
 スリル、笑い、悲しみ、感動、恐怖‥‥  
      一瞬にして、すべてが訪れる。
     (The Atlanta Journal-Constitution) 」

      日常と非日常、
   現実と超現実、
           意識と無意識、
     幸不幸、
        快不快、
  美醜、
       善悪、
            生死・・・

裏表紙の言葉通り、
あらゆる境界をするりと行き来し、多様な世界を体験させられる短篇集でした。

(前略)何気なくページを開いたのだが、一度読み始めると、本を置くことができなくなってしまった。気がつくと二時間が経過していた。そんなに夢中になって本のページを繰ったのは、学生時代以来のことだった。そこで過ごした時間があまりにも心地よかったので、また同じ場所に戻ってきたのだ。(後略)

p362

村上春樹の作品には、ゲートがあると感じています。
私にとって初めての村上作品『ノルウェイの森』を手にした時、私はこのゲートを通過することができませんでした。

いくら読んでも面白くならないし、そもそもよくわからない。
世間がなぜそんなにも騒いでいるのかを理解できないまま、敗北感を覚えつつ未読で本を置きました。

その体験があり、村上作品には苦手意識がありました。
ところが、数年後に再チャレンジした『ノルウェイの森』では、なぜかあっさりとゲートを通過できたのです。
予想に反して物語は面白く、夢中になってページをめくり、
それ以降、
他の作品にも手を伸ばすようになりました。

私が今回ゲートを通過したのは、次の文章を読んでいた時です。

「バスはぴかぴかで、ついさっき完成して工場から引き渡されたばかりみたいに見えた。金属部分にはくもりひとつなく、表面に顔がきれいに映るくらいだ。シートのけばもしっかりとして、新品の機械に特有の、誇らしげで楽天的な気配が小さなねじのひとつひとつにまで漂っていた。」

なんでこれ?と思うかもしれませんが、感覚だとしか言いようがありません。
とにかくこの一文を読んだ時、あ、私はいま村上春樹の世界に入った、と感じたのです。
1作目の序盤に登場した文章でゲートを通過できたのは、幸いでした。
その後は、何度もゲートを出たり入ったり繰り返しながら、ジャンルを超えた多彩な物語世界に浸ることができました。

映画化を機に久しぶりに手にした村上作品。
それは、やはり村上春樹の世界というものがあるのだと感じさせられるコレクションでした。

現実的な話、奇想天外な話、怖い話、面白い話、不快な話・・・夢中になって読んでいるなかでときおり心に直接響いてくる言葉、文章、イメージがあって、そういうものに出会うと自分の深淵に何かが刻まれたのを感じます。
あぁまた何かが刻まれた、と感じながらその世界に没頭しているのは愉しい時間でした。

映画を観る前に ──
映像の力で物語の輪郭を固定される前に ──
と手にした本書。

当初の目的は達せられなかったものの、村上春樹の世界を堪能するに申し分ない一冊でした。
映画に関わる残り3篇は違う短篇集に収録されているようなので、そちらも読んでみたいと思います。

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