新聞の文化欄で、佐々涼子さんのことを知りました。
『夜明けを待つ』という作品集のあとがきに、
自身の希少がんについて、
「希少」は、私には「希望」と見えてくる
と書かれていると紹介されており、
どんな作品を書く方なのか読んでみたくなりました。
佐々涼子さんの著書、初めて読む作品です。
我々は弔い損ねてはいないか
ちょうどこの本を読み終わったころ、 購読している新聞で、
最近の葬儀事情を取り上げる連載が始まりました。
身内による家族葬が増えるなど、葬儀の簡素化が広がる一方で、
十分な葬儀ができなかったと感じる人に「弔い直し」の動きもあるようです。
今のような簡略な葬儀を、私は現代の社会が初めて経験するものだと思っていました。
ですが記事によると、日本や韓国、中国などの東アジアでは、
死者を手厚く弔う「厚葬思想」と、葬礼を簡素化する「薄葬思想」が、
あざなえる縄のごとし繰り返し登場してきたのだそうです。
今は薄葬思想の時代にあたるとともに、コロナ禍がその流れを加速させ、是認したことが、
今の状況をつくりあげたということです。
しかし、「弔い直し」の動きがあるということは、
社会の流れの中で簡素な葬儀を行ったものの、
何か納得できないものが残ってしまった方々がいる、
ということの表れなのではないでしょうか。
著書の「おわりに」に、こんな言葉があります。
悲しみぬかれておらず、吟味し尽くされていないものは
いつか必ず同じ問題へと我々を引き戻すことになるだろう。
弔い直しとは、そういうことなのだと思います。
なぜ次の日には骨にしてしまうというのにわざわざ合理的とは思えない行為をするのだろう。科学の発達した世の中だ。生命の失われた体をただのたんぱく質のかたまりだと済ませてしまうこともできるだろう。しかし我々はいくら科学が進歩しようとも、遺体に執着し続け、亡き人に対する想いを手放すことはない。その説明のつかない想いが、人間を人間たらしめる感情なのだと思う。
p235
この本によって初めて、「国際霊柩送還士」という仕事があることを知りました。
海外で亡くなった縁もゆかりもない方のために、
残された遺族のために、
最後の最後まで何かできることはないかと尽力している人たち。
そこには、
「死んでしまったのだから」
という思考は一切ありません。
亡くなった人の想い、
遺族の想い、
それらは、
「死」という一時点で終結するものではない、
ということを知っているのです。
近しい人に死が訪れても、
それでも、
残された人間はそこから新たな日々を生きていかなければなりません。
新たな日々を生きていくために、
死によって生じた悲嘆を、
何らかの形で昇華する必要があります。
それが弔いであり、
それも悲しみぬいた弔いであり、
それを可能にするために、国際霊柩送還士の方々は尽力してくださっているのです。
そんな方々がいる一方で、
この時代の我々は、
弔いに対してどこか他人事のようです。
できるだけ触れないようにと、距離をおいてしまっている感じがします。
直葬という言葉を初めて目にした時、ぎょっとした記憶があります。
あまりに直接すぎるし、
生から亡き者への展開が早すぎて、
死んだら無用と言っているような気がしました。
その無機質な感じに違和感を覚えたのです。
家族葬という言葉を聞いた時にも、直葬の時ほどではありませんが、
なんとなく哀しい気持ちになりました。
それなのに、著名人までもが家族葬を行うようになり、
新聞にもそのお知らせが小さく載ることが増える中で、
当初の感覚はだんだんと薄れていきました。
慣らされていったのです。
この本を読むまでは、
そうした感覚の変化も時代に沿った当たり前のものだと捉えていました。
ですが、読み進める中で、
「本当にそれでいいのか」、
という感情がどんどん大きくなりました。
儀礼の形が重要なわけではありません。
厚葬だから立派なわけでも、
薄葬だから粗末なわけでもありません。
では、弔いとは何なのか。
この時代の我々にとってどんな弔いが必要なのか。
自分はどんな弔いをするのか。
したいのか。
時代の流れがどうであれ、
「弔う」
ということに対して、
今一度、自分で考えることが必要なのではないか、と強く問うてくる本でした。