村上春樹の作品が初めてアニメ映画化された「めくらやなぎと眠る女」。
その原作だと思って手にした『めくらやなぎと眠る女』(新潮社)が実は原作ではなく、
映画に関連した短篇3作品を含む24の短篇コレクションであったことに驚きつつ(ちなみに、映画は短篇6作品から再構築されています)、いつの間にか夢中になって村上春樹の世界を堪能したのはつい先日のことですが、
やはり残りの3作品も気になって、それらが含まれる小説集を読んでみました。
まずは映画の主要人物でありそうなかえるくんが出てくる「かえるくん、東京を救う」と、小村が登場する「UFOが釧路に降りる」が含まれる連作短編小説集『神の子どもたちはみな踊る』です。
蓄積
この短篇集は、1995年1月に起こった阪神・淡路大震災に衝撃を受けたのであろう著者が、その地震に触発されて記した6つの黙示録です。
雑誌『新潮』に連載された際には、総題に「地震のあとで」と掲げられていました。
その総題が示す通り、登場人物たちはどこかしらで地震の余波にさらされています。
地震のニュースを見続けた妻が失踪して呆然とする小村。
家族を神戸に残してきた三宅さんと焚き火にあたる順子。
母親が信者仲間と熱心にボランティア活動をしている善也。
神戸のあの男が地震に飲み込まれていることを願うさつき。
次に迫り来る地震の阻止を手伝うように求められる片桐。
そして、
地震で眠れなくなった小夜子の娘を世話する淳平。
それぞれが、自分はからっぽだと感じ、あるいは白く堅い石を抱えていると感じるような生きづらさに喘ぎながら、日々を過ごしています。
そんな日常に起きた地震。
非日常の衝撃は、己の奥底にあるなにか生々しいものを静かに目覚めさせ、からっぽでも白くて堅い石でもないエネルギーをうねらせます。
「みみずくんは地底に住んでいます。巨大なみみずです。腹を立てると地震を起こします」とかえるくんは言った。「そして今みみずくんはひどく腹を立てています」
p160
(中略)「彼はただ、遠くからやってくる響きやふるえを身体に感じとり、ひとつひとつ吸収し、蓄積しているだけなのだと思います。そしてそれらの多くは何かしらの化学作用によって、憎しみというかたちに置き換えられます。どうしてそうなるのかはわかりません。ぼくには説明のつけられないことです」
みみずくんとの闘いを終えたかえるくんが言います。
「ぼくの敵はぼく自身の中のぼくでもあります。ぼく自身の中には非ぼくがいます」
自分が抱えているなにか。
知らないうちに蓄積されているなにか。
自分の内側のそれに目を向けず、外に向かって求め続けていれば、
自分の中には徐々に不穏ななにかが蓄えられていく…
それはいつか、みみずくんを大暴れさせることにつながるのかもしれません。
地震の現場には直接触れず、その周辺で展開される物語群。
連作短篇集というほどそれぞれの作品が繋がっているわけでもなく、
しかし完全に隔絶されているのでもない、ゆるやかに結び付いた地震後の世界。
その世界でずっと前から抱えられていたなにかがうごめき出し、
起きた共振はどれもが新たな始まりを、
目覚めを、
闇に灯る光を感じさせるものでした。
ところで、私は本書を映画「めくらやなぎと眠る女」の鑑賞前に一度読み、鑑賞後に再読し、そして今この書評を書いているのですが、かえるくんがすっかり映画バージョンに置き換えられてしまいました。
映画鑑賞前に私が創造したかえるくんは、もっとソフトでマイルドで可愛らしい感じだったのに、あのかえるくんは何処へ…
それだけ、生粋の村上春樹ファンであるといわれるピエール・フォルデス監督が創り出した春樹ワールドが見事であったということになりますが、善かれ悪しかれ映像の力は強烈です。
本書のいくつかの場面は、もはやアニメーションの映像とともにしか思い浮かべられなくなってしまいました。
そんなことを考えていたら、またあの個性際立つかえるくんに会いたくなってきました。
とは言え馴染みの映画館での上映は終了してしまいましたので、本書の「かえるくん、東京を救う」の中で再会することにします。