《書評》『ある一生』ローベルト・ゼーターラー

読書

いつも楽しみにしている夕刊紙面の映画紹介ページ。
ある日のその紙面。
メインの映画ではなく、二番目に紹介されていた小さな記事で、『ある一生』という映画を知りました。

名もなき男の一生を描くヒューマンドラマ。
岩山に立ち、眼前に広がる壮大な雪嶺に目を向ける青年の姿。

なぜかとても惹かれて上映館を確認したのですが、残念ながら遠方ばかり。
それでもこのドラマを知りたくて、原作を手に取りました。
( 結末を暗示する内容が含まれています。これから読まれる方はご注意ください。)

ある一生 [ ローベルト・ゼーターラー ]

恩 寵

ある男の一生。
骨身を惜しまず働いた。
人を愛し、奪われた。
子供時代と、ひとつの戦争と、一度の雪崩を生き延びた。
やがて歳を重ね、引退し、人里離れた小屋で暮らしはじめる──

そんな一生です。

そんな一生が、静かな筆致で綴られます。
生涯を通じて折々に起こる事件や災難は決して小さな出来事ではないはずなのに、
主人公はそれらすべてを、
あらゆる変化を、
静かに受け止め人生に刻みます。

刻まれたそれぞれの瞬間は秘めた輝きを宿し、男の人生を満たしていくのです。

自分がどこから来たのかは覚えていないし、自分が最終的にどこへ行くのかもわからない。だがそのあいだの時間を──自分のこの一生を──エッガーは悔いなく振り返ることができた。乾いた笑いを漏らしながら。そして、大きな驚きに息を呑みながら。

p139

日本語にして150ページにも満たない短い物語。
主人公は多くを語らず、生涯をほぼ一人者で過ごします。

それなのに、
この静かに澄み渡った清々しさと、
何一つ欠けた感じのない満ち足りた心象はなんなのか。

それは、主人公の生き様にあります。

他と比較せず、他を羨望せず、
来るものを受け入れ、来ないものを思わず、
己の力で立ち、己の力で日々を刻んだ。

ゆっくり考え、ゆっくり歩き、
何者にも脅かされない逞しさで生きた跡を残した。

自然の近くに生き、自然の叡智を理解し、
自らの能力を十全に活かして生き抜いた。

そんな生き様が、静かに心に沁みてくるのです。

映画に惹かれて手に取った本書ですが、映像で観る前に読むことができてよかったです。

ある男の一生。
幸せな時間に比してあまりにも困難な時間の多い一生。
しかし、
恨むことも抗うこともせず、
この生に関する責任の全てを己一人で引き受ける、
という生き様の一生。

そんな一生を濃く静かに、
淡々とした枯れた描写で語る物語を、
一人だけで、
深く無心に堪能する時間は
かけがえのないものでした。

読んでいると心が凪いでくる。
そして、胸の奥が満たされる。

何度もここに戻ってきたい──
そんなおもいを抱かせる物語でした。

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