《書評》『他者の靴を履く アナーキック・エンパシーのすすめ』ブレイディみかこ

読書

私がブレイディさんの著書を読むようになったきっかけは、本書の文庫本が刊行されたことを知らせる新聞広告を見たことです。

「『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』の大人の続編」

そんなふうに書かれていました。

『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』。
その題名を一時はよく耳にしたものですが、なぜか読む機会のないまま今年に至り、
ではそちらからと読んでみたら、これが面白い。

リズミカルな文章にぐいぐいと引き込まれ、
その続編や周辺作品を数冊読んだ後、ようやくきっかけのこの本を手にすることになりました。

他者の靴を履く アナーキック・エンパシーのすすめ [ ブレイディみかこ ]

誰かの靴を履いてみること

本書の「はじめに」で、著者が『ぼくは〜』に触れています。
それによると、『ぼくは〜』にたった4ページだけ登場する言葉が独り歩きを始め、多くの人々がそれについて語り合うようになったのだそうです。
その言葉が「エンパシー」。

えっ
そうなの?

私が『ぼくは〜』を読んだのはほんの数ヶ月前なのに、恥ずかしながらそれがどの部分だったのかを思い出せません。
急いで再び『ぼくは〜』のページを繰ってみました。

あぁ確かに!
あったあった、そんな箇所。
しかも、聡明な息子さんの聡明さがキラリと光り、私も好きなエピソードのひとつでした。
それなのに忘れているなんて…。

そういえば、『ぼくは〜』を読んだときは文章のリズム感に酔いしれ、その居心地の良さが強烈な印象となって残ったので、個々のエピソードは記憶の底に沈んでしまっていたようです。

息子さんは、中学校の期末試験で出題された「エンパシーとは何か」との問いに対して、「自分で誰かの靴を履いてみること」と答えました。
この「誰かの靴を履いてみること」という表現がいかに秀逸か、本書を読んでいるとわかってきます。

そんな「エンパシー」の光と影を伝えるべく、この概念を深く掘り下げる著者の思考の旅が綴られます。

(前略)「わたしがわたし自身を生きる」アナキズムと、「他者の靴を履く」エンパシーが、どう繋がっているのかと不思議に思われるかもしれない。しかし、この両者がまるで昔からの親友であったかのようにごく自然い出会い、調和して、一つに溶け合う風景を目の前に立ち上げてくれたことは、この旅における最大の収穫だった。
 この思考の旅でわたしが得た多くの気づきが、あなたにも何らかの気づきを与えますように。

単行本p3

そもそも、「エンパシー」という言葉に馴染みがありません。
「シンパシー」なら、まぁ、なんとなく分かります。
英語が母国語の国では、「エンパシー」はもう何年も前からクローズアップされてきた言葉だそうですが、対する日本ではどうなのでしょうか。
「エンパシー」も「シンパシー」も「共感」と訳されてしまう日本でこの二つを区別するのは、至難の業に感じます。
(余談ですが、この言葉に限らず、日本では外国語をカタカナで取り入れて、わかったつもりになっている言葉が多すぎ、それがさまざまなことの理解を妨げているような感覚があります)。

両者の意味を確認してみると、
エンパシー:他者の感情や経験などを理解する能力(つまり身につけるもの)
シンパシー:感情・行為・友情・理解など内側から湧いてくるもの
という明確な違いがあります。
要するに、エンパシーは能力・スキルなので、鍛えることができるものなのです。

この能力を身につけようとするとき、「他人の靴を履いてみる」という表現(考え方)が生きてきます。
誰かの靴を履くためには、まず自分の靴を脱がなければなりません。
ところが、他者の靴を履こうとするときに自分の靴に拘泥している(=属性に縛られている)と、靴を脱げずに他人の靴を履くことはできません。
「汚い靴、臭い靴は履きたくない」というのは、他者の一面をみて全体を決めつける短絡的な思考です。
自分の靴を少しでも新しく見せるためにひたすら磨き続けている(=ルッキズムに囚われる)と、他者の靴を履くことに意識が向かいません。

「靴、とは自分や他者の人生であり、生活であり、環境であり、それによって生まれるユニークな個性や心情や培われてきた考え方」だと著者は言います。
そして、他者の靴を履く、つまり「エンパシー」とはその人になったつもりで想像力を働かせてみることです。
「他者の靴を履いてみる」という表現は、「エンパシー」の漠然とした概念を分かりやすく伝えてくれています。

私の世界とは違う世界がある。
世界は広い。
こことは違う世界がある。

その想像を可能にするのが「エンパシー」。

「エンパシー」の光と闇を理解するのはなかなかに骨の折れることですが、「他者の靴を履いてみる」という考え方がその理解を助けてくれました。

著者から切り離せない「アナキズム」の思考がなぜ「エンパシー」に繋がるのか。
それは、アナキズム、わたしがわたしを生きる、という確固とした軸がなければ、エンパシーは自己の喪失へとつながり、抑圧的社会をつくり、知らぬ間に毒性のあるのものに変わってしまう可能性があるからです。

「アナキズム」と「エンパシー」。
どちらも今までの私には縁薄く、あまり触れることのない概念でした。
でも、本書を読んでいると、多様性の時代といわれるカオスな現代を生きていくために、もっと積極的に理解する必要のあるものなのだとわかります。

最近、ネット上で「『エンパシー』をどう訳すか」という著者のコラムを読みました。
ですが、やはり適当な日本語はまだ見つからないようです。
そしてそれが当たり前であるとも記しています。

であるならば、本書の題名にもつながる「他者の靴を履くこと」という表現は、現時点で最も的確な訳なのではないでしょうか。
「両義性を持つ人間の能力について考える旅が、たかが数年で終わるわけがない」とも記している著者。
本書の続きがいつの日か書かれるかもしれませんが、それまでは、自分自身で「他者の靴を履くこと」について考えていきたいと思います。

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