《書評》『「むなしさ」の味わい方』きたやまおさむ

読書

新聞の書評欄に「むなしさ」という文字を見つけ、そのまま読み進めてしまいました。

「きたやまおさむ」という著者のお名前や「帰って来たヨッパライ」という曲名にはピンと来ませんでしたが、「おらは死んじまっただ〜」のフレーズは、かつてよく耳にしたような・・・。

そんな「帰って来たヨッパライ」が大ヒットしたものの、ファンに期待される「自分」と、本当の「自分」は違うのではないか、とむなしさを覚えた著者の手による本書。

「むなしさ」の味わい方を知りたくて、読んでみました。

「むなしさ」の味わい方 [ きたやまおさむ ]

あって当然

著者は、医学生時代に芸能界デビューし、華やかな表舞台を経験したのち精神科医となりました。
その経験に培われた精神分析学を活かした深層心理学で、「むなしさ」について考察していきます。

その考察を読んでいると、「むなしさ」はあって当然のものだということが、理論的にわかってきます。

私たちは、一般的には母の胎内でこの世の営みを始めますが、その誕生の原点では、何を望まなくても必要な血液や栄養分を与えられます。
老廃物の排出も自動的に行われ、何もかもが満たされた状態です。
それが、体外に産み出され、次第に、全てが満たされた状態が崩れていきます。
何かを望んでも、望んだ結果を得られない経験が増えてくる。
その時、満たされていた心身が、徐々に満たされなくなっていきます。
そうして、「むなしさ」が生まれるのだそうです。

満たされていたものが満たされなくなる。
通じていたものが通じなくなる。
相手が自分の期待に応えてくれない ──
人が成長し、心が発達するためには避けては通れない道筋。
その過程で「むなしさ」という感覚は、必然的に生まれてくるものなのだと明示されます。

上で「一般的には」と書きましたが、「むなしさ」という感覚を私たちが感じ取れるのは、心の発達過程においてそれと同様の体験(満たされた状態から満たされない状態への喪失体験)をしたことがあり、それを感じ取ってきた記憶があるからです。
逆にいえば、誕生の原点における「満たされた状態」が極度に不安定だった場合、そもそも何かが失われたという感覚、つまり「むなしさ」を感じ取ることさえできないことになります。

それは、想像を絶する「空虚」です。

「むなしさ」を感じられるということ、
それは「満たされた」という感覚を十分に持つことができた証だということもできます。
満たされた経験と「むなしさ」はコインの表裏。
あって当然なのだと受け入れて、できればこれを味わいたい、と著者はすすめます。

 私たちは「むなしさ」から逃れようがありません。いや、むしろ「むなしさ」という母が私たちを生んだのだともいえます。「むなしさ」は割り切れないし、けっしてすむことはありません。
 誰の人生も不純で矛盾に満ち、いつもモヤモヤして、物事は「すまないもの」であることを思い知ったとき、私たちはもう煽られないで、自分の周囲の世界や他者に対して接することができるようになる可能性があります。
 「すまない存在」である自分に、一種のあきらめを感じ、すまないものを置いておくことができたら、人生に意味を見出せなくても、穴だらけの人生に少しのゆとりが見出されるかもしれません。一見砂をかむように味気ない「むなしさ」でも、これを味わい、かみしめないのは、もったいないと私は考えます。

p199

「むなしさ」は自分ではどうすることもできない。
でも、それをかみしめ、味わうことで、人生により深みが出てくることもあると著者は訴えます。

実際に、古くから日本人は「むなしさ」という感覚を、一種の美的なものとして愛し、いろいろな形で文化に取り入れてきました。
儚さ。無常。刹那。流転。
そして、「むなしさ」。
それらを美しく、いとおしいと感じることができる感性は、何ものにも代え難いものです。

 ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人と栖と、またかくのごとし。(鴨長明『方丈記』)

 夏草や兵どもが夢の跡(松尾芭蕉『奥の細道』)

 祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし(『平家物語』)

こうした世界をしみじみと味わえるのは、「むなしさ」という感覚を知っているからです。

「むなしさ」は確かにしんどい感情ですが、それを「はかなさ」として受け入れるところから、文化や芸術は生まれてきたのです。

心にぽっかりと穴があき、そこを風が吹き抜ける。
むなしい ── 。

そんな「むなしさ」は誰にでも訪れます。

便利さや快適さを追求する現代では、その感覚は無駄なものとされ、恐ろしいものとされ、あってはならないもののように捉えられています。
でも、「むなしさ」は誰にでもあるものなのです。

いつも満たされ充実し、キラキラと輝く表舞台にばかりスポットライトが当てられる華やかな世界。
そんなものは虚構です。

「むなしさ」を感じられるのは、ごく普通の日常が続いていく現実の世界を生きているから。

そう自覚すれば、「むなしさ」に襲われてもその感覚を過大に恐れず、忌み嫌わずに、
じっくりとかみしめることができそうです。

ため息をつきながらも「むなしさ」を味わう。
それが、心の豊かさを広げる第一歩なのだと、教えてくれる一冊でした。

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