《書評》『訂正する力』東 浩紀

読書

新書大賞2024が発表された時、
第2位『訂正する力』と第3位の本書『客観性の落とし穴』に興味を惹かれ、
すぐに図書館で予約しました。

『客観性の落とし穴』に続いて借りることができたので、
すぐに読み始めました。

訂正する力 [ 東 浩紀 ]

じつは••••••だった

生きていれば、過去のあれやこれやについて、
「じつは••••••だった」
という感覚を持つことは度々あります。
「あぁ、そういうことだったのか」
と突然ひらめいて、
それまでの概念がくるっとひっくり返ることもあります。

ところが、現代の社会は訂正を許しません

初志貫徹や首尾一貫、徹頭徹尾といった熟語もあるように、
言ったこと、やり始めたことを最後まで貫き通す「ぶれない」態度は、
しばしば評価の対象になります。

かと思えば、リセット願望も顕著です。
なにか閉塞感を感じたら、
今までのものは全て捨ててゼロからスタートする。
まっさらになって再出発だ!

── ですが著者は、
ぶれないこともリセットすることも、
幼稚な発想だと諌めます。

そもそも、一番身近な自分のことを考えたらわかります。
人間はだれもが老います。
老いは避けられないものなのに、
自分は若いとぶれずに言い続けることは滑稽ですし、
老いをリセットする若返り法ばかりがもてはやされるのもおかしなものです。

そしてなにより、自分自身を捨てることはできません。

老いた自分を捨てることも否定することも不可能なら、
その変化を肯定的に語るすべを持つことが重要です。

それが、訂正する力です。

同じ自分を維持しながらも、
昔の自分を少しずつ正し、変化し、訂正する。
「ぶれない」のでもない、
「リセットする」のでもない、
その間を行ったり来たりしながらバランスをとり
豊かさを維持していく。

そうした柔軟な感覚を取り戻すための著者の提案が、
哲学をベースに展開されます。

 訂正する力の核心は、「じつは••••••だった」という発見の感覚にあります。ひとは、新たな情報を得たときに、現在の認識を改めるだけでなく、「じつは••••••だった」というかたちで過去の定義に遡り、概念の歴史を頭のなかで書き換えることができます。人間や集団のアイデンティティは、じつはそのような現在と過去とをつなぐ「遡行的訂正のダイナミズム」がなくては成立しません。

p137

現代社会では効力を失ってしまった「訂正する力」。

ところが日本には、もともとその力が備わっていたどころか、
むしろ得意な国だったのだそうです。

縄文と弥生。朝廷と武士。攘夷と開国。明治と戦後。
閉じることと開かれること。
作為と自然。漢意と大和心。保守とリベラル。
そして、
スタイリッシュとキッチュ。

日本は両者を自由自在に使い分け、
往復しながら、
日本というアイデンティティを形成してきました。

いろいろと変わっていくけれど、肝心なところは守る。
リベラルなようでいて保守的。
保守的なようでいてリベラル。

そういう柔軟性がもともとあった、土壌がある、と知ることは、
「ぶれない」と「リセットする」の両極端に縛られた頑なな態度を解くヒントになりそうです。

戦後日本のリベラルを代表する政治学者の丸山眞男が、
日本文化を特徴づける言葉として次のようなフレーズを提案しているそうです。

つぎつぎになりゆくいきほひ

「つぎつぎ」は継続性、「なりゆく」は生成性、「いきほひ」は空気を表します。
つまり、ものごとがなんとなく自然と生まれてつながっていく。

そういう発想が日本の思想や政治を動かしてきたのだと言います。
であれば、
今の状況が息苦しく感じるのも無理はありません。

「なんとなく」「自然と」「つながって」いかない社会。
0か100か。
プラスかマイナスか。
白か黒か…
全てに是非を問われる社会。

本来世の中は、人生は、そんな両極端で成り立っているものではありません。
それなのに、現代はその両極端に支配されている。

その支配から逃れるために必要なのが「訂正する力」。
地道な努力であれ、個々人が過去を再解釈し、現代に生き返らせ、つなげていく。

そういう柔軟な思考が、環境が広がることが、
ゆるやかに変化しながら
個人も社会も豊かさを持続できる
成熟した社会のあり方なのだと知りました。

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